HISTORICAL PERSON · 1924年没

カール・シュピッテラー

スイスの詩人。神話を題材にした大作『プロメテウスとエピメテウス』を変名で発表し、1919年にノーベル文学賞を受賞した。家庭教師としてロシアとフィンランドで8年間過ごした。

生涯
1924年没
死亡地
スイス連邦(ルツェルン州 / ルツェルン)
出生地
スイス連邦(リースタル)
出典
世界地図
スイス連邦(ルツェルン州)

伝記

カール・フリードリヒ・ゲオルク・シュピッテラーは、1845年4月24日にスイス北西部バーゼル近郊のリースタルで、官僚の息子として生まれたスイスの詩人であり、作家である。1919年にノーベル文学賞を受賞した。少年時代には、新宗教を興そうとしたなど、奇行の逸話を持つ。はじめ父に従ってバーゼル大学で法律を学んだが、中退し、のちにチューリッヒ大学とハイデルベルクの大学で神学を修めて、牧師になる道に進んだが、まもなくその職を辞した。家庭教師としてロシアとフィンランドで8年間過ごし、帰国した後、教師やジャーナリストとして過ごして、幅広い文学的素養を身につけた。ロシアで暮らしたのは、サンクトペテルブルクで、1871年から1879年のことで、帰国後はベルンの女学校で教えた。

1881年から1885年には、ビール湖畔のヌーヴヴィルで、ギムナジウムのドイツ語、ラテン語、ギリシア語の教師を務めた。教えることは、生活のための仕事だったが、硬直した教育課程を超えようとして、生徒に文学の主題への関心を呼び起こすことに、心を砕いた。その同じ時期に、帰国後の一つ目の重要な詩を書いた。神話を題材にした大作『プロメテウスとエピメテウス』である。これはカール・フェリックス・タンデムという変名の下で、1881年に出版されたが、出版当初は、全く注目されなかった。1883年に、かつての教え子であるオランダ人の女性マリアと結婚した。ヌーヴヴィルを去ってからは、スイスの複数の日刊紙で、文芸批評家や文芸欄の執筆者として生計を立てた。まずバーゼルに住み、妻の両親の遺産が1892年に入ったことで、ルツェルンに定住して、創作に没頭できるようになり、終生そこで、妻と二人の娘とともに暮らした。

彼にノーベル賞をもたらした二つ目の重要な作品は、1900年から05年に出版され、10年に改定された、大作叙事詩『オリュンピアの春』である。悲観的であると同時に英雄的な詩で、その文体と着想は、ギリシアやローマの大古典に由来するとされる。晩年まで最初の作品の手直しをし、最初の版よりさらに形式的な構成にして、対句も盛り込み、1924年に『忍苦者プロメテウス』という題で出版した。中期の作品はバラエティに富み、1883年から1906年には、七つの宇宙の創作神話を韻文体で描いた『現世の外』や、バラード集、『蝶々』『草と鐘の歌』などを書いた。1907年には、自身の体験に基づく子供時代の田園詩『少女嫌ひ』を、1906年には小説『イマーゴー』を書いた。『イマーゴー』には、天性の創造力と、中流の価値観との間で葛藤する、自らの姿が明確に反映され、フロイトら精神分析学者たちから注目された。

1914年には、自伝的作品『私の初期の体験』を書いた。同年、第一次世界大戦でスイスが、親ドイツ派と親フランス派に分かれていくなか、中立と少数者の尊重、国の統一を訴える演説「我々スイス人の立場」を行った。国境の外に住む者は隣人であり、国内に住む者は兄弟であると述べ、その違いは大きいと説いた。この演説は、ドイツやスイスのドイツ語圏から激しい批判を受け、主な読者層も戦争中は背を向けた。1919年、75歳でノーベル文学賞を受賞し、1924年12月29日にルツェルンで死去した。

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