伝記
シハーブッディーン・ムハンマドは、ゴール朝の君主で、北インドで史上初めて、イスラム教徒による安定した支配をつくった人物である。インド史ではムハンマド・ゴーリー、すなわち「ゴールのムハンマド」の名で知られ、称号はムイッズッディーンともいった。アフガニスタン中部のゴール地方に生まれ、父はゴール朝の君主バハーウッディーン・サーム1世で、父は1149年に没し、ムハンマドはまだ子どもであった。生まれた年は分かっておらず、1144年とも、1149年ともいわれる。幼いころ、母は彼の肌が黒かったため「ザンギー」と呼んだ。兄はギヤースッディーン・ムハンマドで、ムハンマドとは3歳ほど年が離れている。
兄弟の若いころは、苦難の連続であった。叔父のアラーウッディーン・フサインは、はじめ二人をサンジャの総督にしたが、その有能さのために二人の忠誠を疑い、ガルジスターンの城に幽閉した。1161年に叔父が没すると、その子サイフッディーンによって解放された。1173年に兄がガズナを攻め落とすと、ムハンマドは兄からガズナの支配を任され、ゴール朝のガズナ政権の君主となった。以後は兄のもとで、主に南方への拡大を担当した。オグズ人を従え、1175年にはインダス川を渡り、ムルターンとウッチを、カルマト派から奪った。続いて下シンドを通り、グジャラートに入ろうとしたが、カサフラダで、チャウルキヤ朝のムーララージャを中心とするラージプートの諸侯の連合に敗れ、負傷した。この失敗のため、以後の進路を変えることになった。1186年にはラホールに残っていたガズナ朝の勢力を滅ぼし、パンジャーブの大部分を手に入れ、ハイバル峠も押さえた。
1191年には、ガンジス川流域への進出を図り、ラージプートの連合を率いるプリトヴィラージ・チャウハーンとタラインで戦って敗れ、負傷して、ホラーサーンに戻った。翌年、騎馬弓兵の大軍を率いてガンジス川流域へ向かい、同じ戦場でこの雪辱を果たした。まもなくプリトヴィラージを処刑した。1193年にはデリーまで勢力下におさめ、アフガニスタン方面に戻って、兄のホラーサーン進出を助けた。インド方面は、クトゥブッディーン・アイバクら腹心のマムルークに任せ、彼らはベンガルにまで進んで北インドの征服を進めた。これがのちの奴隷王朝の自立のきっかけとなった。
1203年(1202年とも)に兄が没すると、本拠地であるフィールーズクーフの座にも着いて、全ゴール朝の君主となった。しかし、長年ゴール朝と戦ってきたホラズム・シャー朝と、これを助けたカラキタイ(西遼)に、アンドフードで大敗し、ホラーサーンの大部分を失った。ムハンマドは奪回をはかったが成功せず、領内の反乱をしずめたのち、アム川に橋を架けさせ、トランスオクシアナへの侵攻を計画した。ところが、ヒンドゥー教徒のホッカル族の反乱が起きたため、ソルトレンジへ向かい、これを厳しく鎮圧した。
1206年3月15日、その帰途、インダス川の岸のダミヤクで、夕方の礼拝をしているときに、ホラーサーンのイスマーイール派の刺客に暗殺されたといわれる。死後、ゴール人、アフガン人、マムルークなどの部下たちが次々と自立し、ゴール朝は急速に統一を失って、1215年にホラズム・シャー朝によってインダス川以西の領土を併合された。しかし、彼がインダス川の東に築いた領土は、マムルークのクトゥブッディーン・アイバクのもとで、強力なデリー・スルタン朝に発展した。
同じ年に亡くなった人物
- ムハンマド・バフティヤール・ハルジー (1206年没)
- フェリー1世 (ロレーヌ公) (1206年没)
- アデル・ド・シャンパーニュ (1206年没)
- ジャザリー (1206年没)
- John X of Constantinople (1206年)
同じ地域に関係する人物
- グル・ナーナク (1539年没)
- Sayed Jaffar (1937年没)
- Abdul Hamid (2019年没)
- ヌールル・アミーン (1974年没)
- Malika Pukhraj (2004年没)