HISTORICAL PERSON · 1925年没

アレクサンドル・フリードマン

ロシア・ソ連の宇宙物理学者。一般相対性理論の方程式から膨張宇宙のモデルをフリードマン方程式として導き、後にハッブルの観測で高く評価された。

生涯
1925年没
死亡地
ロシア連邦(サンクトペテルブルク)
出生地
ロシア連邦(サンクトペテルブルク)
出典
世界地図
ロシア連邦(サンクトペテルブルク)

伝記

アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ・フリードマンは、1888年6月16日に生まれ、1925年9月16日に没したロシアおよびソ連の宇宙物理学者、数学者、気象学者である。1922年に、一般相対性理論の場の方程式に従う膨張宇宙のモデルを、フリードマン方程式の解として定式化したことで知られる。彼のモデルは、死後の1929年に、ハッブルの観測によって宇宙膨張が発見されたことで、高く評価された。

サンクトペテルブルクで、作曲家でバレエ舞踊家の父と、ピアニストの母の間に生まれた。祖父の代にキリスト教に改宗したユダヤ人の家系で、幼いころにロシア正教会で洗礼を受けた。学生時代から、のちに著名な数学者となるタマルキンを生涯の友とした。サンクトペテルブルク大学で数学を専攻し、1910年に卒業して、鉱山大学の教員となり、卒業後はパブロフ高層気象観測所で気象学を学んだ。1911年にエカテリーナ・ドロフェーエワと結婚したが、のちに離婚し、1923年にナタリア・マリニナと再婚した。

生涯のほとんどをレニングラード(現サンクトペテルブルク)で過ごした。第一次世界大戦ではロシア軍の航空兵に志願し、爆撃手として戦争に参加した。大戦末期には航空隊を指揮するようになり、軍で弾道計算も行った。革命政権下では航空機の工場の長も務めた。ロシア革命の後、ペルミ大学の力学の教授となった。1920年にサンクトペテルブルクの科学アカデミーに戻り、量子力学や相対性理論など、当時最先端の物理学を研究した。レニングラード大学でも教え、学生にはジョージ・ガモフらがいた。

1922年、物質を含む運動する膨張宇宙の考えを、一般相対性理論に基づいて発表した。アインシュタインとの往復書簡からは、彼が進化する宇宙の考えを受け入れるのに抵抗し、方程式を見直して、永遠で静的な宇宙を支持しようとしたことがうかがえる。1924年1月7日にブリュッセル科学アカデミーによって出版された論文『負の定数曲率を持つ宇宙の可能性について』で、正、ゼロ、負の曲率を持つ三つの宇宙モデル(フリードマンモデル)を取り扱った。同時期にアメリカのロバートソンとイギリスのウォーカーが、それぞれ独自にアインシュタイン方程式の時空の計量を解析して、同様の結果を得ていたため、今日では3人の名前をまとめてフリードマン・ロバートソン・ウォーカー計量と呼ぶのが一般的である。1927年にはベルギーの天文学者ルメートルが、フリードマンの仕事を知らずに、進化する宇宙を独立に定式化した。宇宙膨張は、1927年にルメートルが、1929年にハッブルが、銀河の遠ざかる観測から確かめた。

1925年6月、レニングラードの主要地球物理観測所の所長に任命された。同年7月には、気球による記録的な飛行に参加し、高度7400メートルに達した。同年9月16日、37歳で没した。公式の記録では死因は腸チフスとされているが、ガモフの談話では、気象観測気球を揚げているときに風邪をひいたのが元で肺炎を起こして死亡したと言われている。また、新婚旅行から戻る途中、駅で買った洗っていない梨を食べて、病原体に感染したとも伝えられる。息子が没後に生まれた。

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