伝記
ヘヌトミレは、古代エジプト第19王朝の王女であり王妃である。名は「女主人はラーに等しい」という意味で、ラメセス2世の大王妃の一人に数えられる。ただし大王妃としての地位は名誉的なものだったとみられている。
出自については説が分かれる。かつてはセティ1世と王妃トゥヤの末娘で、ラメセス2世やティアの妹だとされていた。バチカンにあるトゥヤの像にヘヌトミレが一緒に表されており、二人を母娘とみなしたことが根拠だった。しかしこの推論は必ずしも妥当ではない。アマルナ時代には、祖母のティイと孫娘のメリトアテンの名を並べた一対の楽器があり、像に並んで表されても母娘とは限らないからである。また、ティアが用いた「王の姉妹」という称号がヘヌトミレにはない。ラメセス2世の像には「王の体から生まれた娘、彼の愛する者、大王妃」という称号が与えられており、彼女は王の妹ではなく、娘だったことが確かめられる。そのためラメセス2世の治世の20年ごろに生まれたとも考えられ、ほかの王女たちと同じく父の妃となった。大王妃になった娘としては、ビントアナト、メリトアメン、ネベトタウイに次ぐ四人目にあたる。
父の妻となった時期は不明である。治世35年ごろに「王の妻」となり、のちの42年から56年の間に「大王妃」となったとされる。晩年のラメセス2世にとって、ビントアナトやマアトホルネフェルウラーと並ぶ主要な妃の一人だったようである。王女としての序列は分かっておらず、アビドスのセティ1世神殿の行列に見える王女ヘヌト…という名が彼女かもしれないとも推測されている。高さ約3メートルのトゥヤ像は、様式からは治世20年以降の作とされるが、ヘヌトミレが「王の妻」の称号を持つため、おそらく35年から42年ないし56年の間に作られたと推定される。彼女の名は、アブキールとヘリオポリスのラメセス2世像に見える。ヘルモポリスの巨像では、王女であり王妃でもあるビントアナトと並べて描かれ、二人とも「世襲王女」「南北の女主人」「王の娘」「大王妃」の称号を帯びる。同じ町で見つかった彼女自身の像には「大王妃」の称号があり、カルトゥーシュの書き方から、治世42年から56年のものとされる。アレクサンドリアの博物館にある旗持ち像の側面にも「王の体から生まれた愛する者、大王妃ヘヌトミレ」と刻まれている。
ヘヌトミレは、簒奪者とされるアメンメセスの治世に亡くなり、王妃の谷のQV75号墓に葬られた。この墓は1986年にクリスチャン・ルブランが確認した。主要な谷の北側の斜面で最後に掘られた墓で、それぞれ長い階段から入る二つの部屋からなる。あらかじめ王女のために準備され、王の娘の称号に空のカルトゥーシュを続けた例が多く、前室の二つの文章だけが王妃の名に改められた。一つには「オシリスとなった、王の腹から生まれた娘、彼の愛する者、大王妃、二国の女主人、上下エジプトの女主人、声正しきヘヌトミレ」とある。
墓は古代のうちに荒らされた。この時代の犯罪の一つとして、彼女の葬儀で鵞鳥が盗まれたという事件も伝わる。副葬品の一部は墓の外で見つかり、「大王妃」の称号を持つカノポス壺も墓の近くから出土した。石棺の身は、のちにテーベの王ホルシエセが、メディネト・ハブ付近で自らの埋葬に再利用した。その銘文では彼女は単に「王の娘」と記されていた。この石棺はいまカイロのエジプト博物館にある。
同じ年に亡くなった人物
- ナジ・マルッタシュ (紀元前1300)
- アメンヘルケペシュエフ (紀元前 1300年(推定))
- トゥクルティ・ニヌルタ1世 (紀元前 1300年(推定))
- マヤ (紀元前1300)
- ムワタリ2世 (紀元前 1300年(推定))
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