伝記
ラーマ6世(ワチラーウット、またはモンクットクラオ)は、1925年11月に没した、チャクリー王朝の第6代のシャム国王である。生年は1880年とも1881年ともいわれ、誕生日は1月1日と伝わる。在位は1910年から没年までである。父はラーマ5世チュラロンコーンで、母は父の4人の王妃のひとりで異母姉でもあるサオワパー・ポンシリである。1888年に重い病気にかかり、父に連れられてシーチャン島で療養した。最初は王宮でタイ語と英語を学び、1893年の末、父は仏領インドシナとの危機を受けて軍の近代化を望み、異母兄弟とともに、軍事学を学ばせるためイギリスへ送った。1895年1月に、異母兄の王太子が没したため、新たな王太子となった。イギリスでは、サンドハースト王立陸軍士官学校で学び、1898年には歩兵連隊の大尉に任官した。1899年にはオックスフォード大学のクライスト・チャーチで法律と歴史を学んだが、虫垂炎のため1901年に卒業できなかった。滞在中にベルギーなど欧州の他国も訪れ、1902年にはエドワード7世の戴冠式に父の名代として出席した。同年10月にイギリスを離れ、アメリカと日本を経て、1903年1月にシャムに戻った。タイの王朝史上、初めて海外留学をした国王である。1904年には慣習に従って一時出家し、1907年に父が腎臓病の治療のためヨーロッパへ渡ると、摂政を務めた。
1910年10月23日に父が没し、王位を継いだ。即位の前から改革に着手し、国防を整えて軍の学校を設立し、シャムで初めて「大将」の位を設け、叔父を最初の元帥とした。即位して最初に行ったのは、王立小姓学校の建設で、英国のパブリックスクールにならった全寮制の男子校であり、王室寺院を建てる代わりとされた。のちにチュラロンコーン大学となる文官学校も設立した。この二つの学校は、今も彼が遺した基金の恩恵を受けている。1912年にはヴァチラ病院、1914年にはチュラロンコーン病院を設立した。義務教育制度を導入し、発電所、水道施設、ドーンムアン空港、橋などを整備した。国旗は、白象旗を廃して現在の三色旗を採用し、国民に姓を持たせる姓氏法を制定した。仏暦を採用し、ボーイスカウトを世界で3番目に導入した。ラーマ5世の異母兄弟の娘が狂犬病で亡くなったことがきっかけで、タイ赤十字社も設置した。近代化によるタイ語の語彙の不足を補うために新しい単語を作り、200以上ともいわれる文学作品を書いた。劇の台本を書き、民衆の前で自ら演じた。西洋にならい、多妻制を廃した。第一次世界大戦に参加して、国際連盟にも加盟した。
ラーマ5世までは華人を優遇していたが、ラーマ5世の死の前に起きた華人の人頭税値上げに反対するゼネストにショックを受けて、政策を一転させ、論文「東洋のユダヤ人」を書いて華人を批判した。一方で華人のタイへの同化をはかった。注目すべき政策も多いが、財政管理は放漫だった。1911年には、軍の指揮系統の外に、虎隊という準軍事組織を設けた。当初は儀礼用の護衛だったが、最初の1年で4000人の組織に膨らみ、王の時間と精力を奪い、正規軍の反感を買って、1912年にはクーデター未遂事件が起きた。こうした組織や宮殿の経費は国家財政を圧迫し、次代のラーマ7世の治世に財政は破綻寸前となって、立憲革命につながった。後継者問題にも関心を示さず、1924年にようやく王位継承の王室典範を制定し、同年に妃スワッタナーと結婚した。しかし子が生まれたのは没する2日前で、王女だった。
同じ年に亡くなった人物
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- Rose Scott (1925年没)
- カール・ヤルマール・ブランティング (1925年没)
- 廖仲愷 (1925年没)
- Yevgenia Bosch (1925年没)
同じ地域に関係する人物
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- クリエンサック・チョマナン (2003年没)
- サオワパー・ポーンシー (1919年没)
- ポーン・キングピッチ (1982年没)