伝記
アーラーム・シャーは、北インドのデリー・スルターン朝、奴隷王朝の第2代君主で、1210年から1211年まで在位した。1176年に生まれ、1211年6月に没したとされる。即位前の名は、アーラーム・バフシュといった。生涯のよくわからない人物で、前任の君主クトゥブッディーン・アイバクとの関係もはっきりしない。『ナースィル史話』の写本の一部には、章の見出しの名のあとに「アイバクの子」という語が見え、のちの著述家たちは彼をアイバクの子と信じた。しかしこの語は、写字生の誤った付け足しかもしれない。同書の著者ミンハージュ・スィラージュは、別の箇所で、アイバクの娘を3人しか挙げていない。ジュヴァイニーの『世界征服者史』は、アイバクに息子はなかったと明言している。アブル・ファズルは、アーラームをアイバクの兄弟とし、近代の研究者には、アイバクとは関係がなかったとする者もいる。ただ、アイバクの跡を継いだことだけは確かである。
1210年、アイバクがラホールで、球技の最中に急死した。後継者は指名されていなかった。国の混乱を防ぐため、ラホールのテュルク系の貴族たちは、アーラーム・シャーを後継者に擁立した。しかし、スルターン国の各地のテュルク系の貴族たちは、その即位に反対し、ベンガルのハルジー系の貴族たちのように、反乱を起こす者もいた。16世紀の歴史家フィリシュタによれば、ムルターンのナースィルッディーン・カバーチャの侵攻も受けたという。アーラーム・シャーは、悪政を敷いたといわれ、国を治める資質に欠けていたともされる。
軍の司法官アリー・イ・イスマーイールに率いられた貴族の一団が、イルトゥトゥミシュに、王位に就くよう求めた。四十人組と呼ばれる貴族の一団が、アーラームに対して陰謀を企てたともいう。イルトゥトゥミシュは、アイバクのもと奴隷であった人物で、バダーウーンの総督であり、軍司令官で、アイバクの娘婿であった。立派な勤めの経歴をもち、アイバクから息子と呼ばれたため、貴族たちは有力な候補と考えた。イルトゥトゥミシュは、デリーへ進軍して権力を握り、1211年に、デリー郊外のバーグ・イ・ジュードで、アーラーム・シャーの軍と戦って破った。『ナースィル史話』は、アーラーム・シャーが「殉教した」と記すが、戦場で殺されたのか、捕虜として処刑されたのかは、はっきりしない。アーラーム・シャーの重要な部下であったアクサンカルとファッルフ・シャーは、戦場で殺された。こうして、アイバクの王統は、2代5年で断絶した。
同じ年に亡くなった人物
- エウフロシネ・ドゥーカイナ・カマテラ (1211年)
- アーデルハイト・フォン・マイセン (1211年没)
- ミェシュコ1世プロントノギ (1211年没)
- 静御前 (1211年)
- ウラカ・デ・ポルトゥガル (1211年没)
同じ地域に関係する人物
- サアーダト・アリー・ハーン (1739年没)
- バフルール・ローディー (1489年没)
- Mohan Rakesh (1972年没)
- Balram Jakhar (2016年没)
- Sarla Thakral (2008年没)