伝記
ルキウス・カッシウス・ロンギヌスは、紀元前2世紀後期の共和政ローマの政治家・軍人である。紀元前107年に執政官(コンスル)を務めたが、その同じ年にガリアで戦死した。
平民(プレブス)のカッシウス氏族の出身で、共和政初期にこの氏族から出た執政官は貴族(パトリキ)系だった。平民系のカッシウス氏族が歴史に現れるのは第一次ポエニ戦争のころで、紀元前171年の執政官ガイウス・カッシウス・ロンギヌスが氏族として最初の執政官であり、ロンギヌスという家族名が確認できる最初の人物でもある。父の個人名はルキウスと伝わるが、祖父は不明である。歴史学者G・サムナーは、紀元前127年の執政官ルキウス・カッシウス・ロンギヌス・ラウィッラを父、紀元前96年の執政官ガイウス・カッシウス・ロンギヌスを弟と考えている。
記録に最初に現れるのは紀元前111年で、このとき法務官(プラエトル)だった。ローマはヌミディアとユグルタ戦争の最中にあり、執政官ルキウス・カルプルニウス・ベスティアはヌミディア王ユグルタと、敵に有利な条約を結んだ。元老院は条約の批准を拒み、ベスティアとマルクス・アエミリウス・スカウルスの行動を調べるとともに、ロンギヌスをヌミディアへ派遣してユグルタをローマに召喚させることにした。もともとヌミディアはローマの同盟国であり、ロンギヌスが身の安全を保証したので、ユグルタはローマに赴いた。護民官ガイウス・メンミウスは、貴族たちが王から賄賂を受け取って見せかけの和平を結んだと非難し、民衆を説得してこの法務官を派遣させたとされる。ところが護民官の一人が拒否権を使い、ユグルタの発言を認めなかった。ユグルタはこの間にローマで別の王位継承者を殺させたが、法務官の保証に守られて咎められなかったという。
紀元前107年、ロンギヌスはガイウス・マリウスとともに執政官に就任した。マリウスはヌミディアへ渡り、ロンギヌスはガリア・トランサルピナ属州の防衛を受け持った。ガリアにはゲルマン系のキンブリ族が侵入しており、ヘルウェティイ族がこれと同盟を結んで、ガリア南西部へ移ることを承諾していた。このヘルウェティイ族の一部がディウィックという人物に率いられてジュラ山脈を越え、ローマの支配地域を通ってガロンヌ川沿いのアジャンに達した。そこにはロンギヌスの率いるローマ軍が待ち受けていた。ただし、ディウィックを海まで追跡したと伝える記録もある。ロンギヌスは進軍の途中でトロサ近郊のウォルカエ・テクトサゲス族と戦って破ったともされる。
両軍は激突したが、戦闘についての情報は断片的で、信頼性に欠けるものもある。ローマ軍は待ち伏せに遭い、ロンギヌスは元執政官ルキウス・カルプルニウス・ピソ・カエソニヌスとともに戦死し、軍も甚大な損害を受けた。残った部隊はガイウス・ポッピリウス・レナトゥスに率いられて野営地に退き、それまでに得た戦利品の半分と捕虜全員を引き渡す約束をして戦場を離れた。生き残った兵はくびきの下をくぐらされたとも伝わるが、これは疑わしいとされる。のちの紀元前58年、カエサルはこの敗北を思い起こし、ヘルウェティイ族を破って雪辱を果たしたという。サムナーによれば、ロンギヌスには紀元前89年の護民官ルキウス、紀元前73年の執政官ガイウス、クイントゥスの三人の息子があり、ガイウスの子はカエサルの暗殺者の一人ガイウス・カッシウス・ロンギヌスである可能性がある。
同じ年に亡くなった人物
- ルキウス・カルプルニウス・ピソ・カエソニヌス (紀元前112年の執政官) (紀元前107年没)
同じ地域に関係する人物
- ロベルト・ミヒェルス (1936年没)
- ピノ・カルーソ (2019年没)
- レナート・カロゾーネ (2001年没)
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