伝記
フェリー2世は、1162年から1165年ごろに生まれ、1213年10月10日に没した、ロレーヌ公(在位1205年または1206年 - 1213年)である。ロレーヌ公フェリー1世と、ポーランド公ミェシュコ3世の娘で、ポーランド公女のヴィエシュホスワヴァ・ルドミワの息子である。父は、ビッチュの領主であった。
ロレーヌは、1179年のリブモン条約によって、叔父のシモン2世と父フェリー1世との間で分割された。ドイツ語を話す北の部分は、シモンの弟のフェリーが、フランス語を話す南の半分は、シモンが得た。シモンは、フェリーを満足させようとして、ビッチュ伯領を与えていた。1188年に、フェリーはバール伯ティボー1世とローレット・ド・ルーンの娘アニェス(トマッシーヌとも)と結婚し、アマンス、ロンウィー、ステネの領地を得たが、まもなく義父の後見から逃れようとした。1197年には、ローマ王のシュヴァーベン公フィリップの立候補を支持していた。1205年、シモン2世は、フェリー1世の息子フェリーを後継者に指名して退位した。それでもフェリー1世は、公として歓呼を受けたが、翌年に死に、息子が跡を継いで、公国は再び統一された。
フェリー2世は、メスのベルトラムと結んで、ティボーと争った。ティボーはヴィックの城を破壊し、プレニーの城を奪い、フェリーはゴルズ修道院の領地を荒らした。ティボーは、ヌフシャトー一帯を荒らした。フェリーは、1208年に敗れ、ティボーに雇われた傭兵に、二人の弟のフィリップとティエリーとともに捕らえられた。ティボーは、娘の持参金として与えた町を取り戻し、アニェスは、一部の財産を失った。フェリーは7か月の捕虜生活ののちに釈放された。1208年にシュヴァーベン公フィリップが死ぬと、フェリーは、その敵のブラウンシュヴァイクのオットーに従い、1211年にオットーが破門されると、のちの皇帝となる、ホーエンシュタウフェン家のフリードリヒに従った。治世の終わりに、アルザスの領主ハルトゥング・フォン・ヴァンゲンに宣戦して、勝利し、ロスハイムで条約が結ばれた。ほかにも、長年にわたって、レミルモンの女子修道院長たちと争った。モーゼル川を見下ろす丘に、フェリーが要塞を築いたことが、非難されたからである。
フェリー2世とアニェスの間には、早世したティボー、ロレーヌ公となったティボー1世とマチュー2世、メス司教となったジャック、ルノー、娘のローレットとアリスなどの子が生まれた。フェリーという名は、フリードリヒの別の形なので、公に何世をつけるかは、混乱がある。大多数の歴史家は、フェリー2世としている。
同じ年に亡くなった人物
- ペドロ2世 (アラゴン王) (1213年没)
- 康宗 (高麗王) (1213年没)
- ガウセルム・ファイデット (1213年(推定))
- Mkhitar Gosh (1213年)
- ニケタス・コニアテス (1213年没)
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