HISTORICAL PERSON · 1926年没

アレクセイ・ブルシーロフ

ロシアとソビエトの軍人。第一次世界大戦でブルシーロフ攻勢を指揮し、陸海軍最高司令官を務めた。最終階級は騎兵大将。

生涯
1926年没
死亡地
ロシア連邦(モスクワ)
出生地
ジョージア(トビリシ)
出典
世界地図
ロシア連邦(モスクワ)

伝記

アレクセイ・アレクセーヴィチ・ブルシーロフは、1853年9月1日(ユリウス暦8月19日)に貴族の家系に生まれたロシアおよびソビエト連邦の軍人である。第一次世界大戦のブルシーロフ攻勢を指揮したことで知られ、最終階級は騎兵大将だった。父はロシア帝国陸軍の少将で、クルスク県やモスクワ県の副知事を務めた人物、母のマリアはポーランド人だった。貴族幼年学校とニコラエフスク騎兵学校を卒業し、1872年7月29日に士官学校を卒業した。1873年から78年まで連隊副官を務め、1877年から1年間は露土戦争に従軍し、カフカースでの戦闘に参加した。アルダガン要塞とカルス要塞の攻略で功績を立てて、勲章を授与された。この頃から指揮官としての素質が表れ、他の誰よりも早く、陣地戦や砲兵の新しい運用方法、通信手段の重要性を理解していた。

1881年に帝都サンクトペテルブルクに赴任し、1883年からは騎兵将校学校に勤務して、1902年には校長を務めた。ロシア国内だけでなく海外でも、騎兵術と馬術の卓越した専門家として知られるようになった。1906年にはニコライ・ニコラエヴィチ大公の推薦で要職に任命され、中将に昇進した。1912年にワルシャワ軍管区司令官補佐に就任して騎兵大将に昇進したが、重要なポストをドイツ人が占め、軍政改革案が退けられたため転属を願い出て、1913年8月からキエフ軍管区の司令官を務めた。

1914年に第一次世界大戦が始まると、第8軍の司令官となった。同年8月、ホガティンの戦いでオーストリア=ハンガリー帝国軍第2軍を破って2万人の捕虜と70門の大砲を捕獲し、8月20日にはガリチアを占領した。9月から10月にはサン川での反撃を撃退して1万5千人を捕虜にした。11月初旬にはルプコフ峠を占領した。1915年春、ロシア軍がゴルリッツ=タルヌフ攻勢で惨敗すると撤退し、6月9日にはリヴィウを放棄したが、8月のホルィニ川の戦いでは防衛に成功し、9月にはルーツクを占領した。1915年の夏から秋には、彼の個人的な提案で、西部ウクライナのドイツ人住民の追放が繰り返し行われた。3日以内に約2万人が追放され、ブルシーロフは、住民が電信や電話の配線の破壊に協力していると信じていた。

1916年3月17日に南西戦線の総司令官に就任し、同年5月にブルシーロフ攻勢を指揮した。広い戦線全域に塹壕や連絡通路、機関銃座を築き、避難所や倉庫を建設し、砲兵陣地も構築した。そのため敵軍はロシア軍がどこから攻撃してくるか判断が遅れ、奇襲で壊滅した。攻勢は100日以上に及び、ロシア軍にも約50万人の死傷者が出たが、オーストリア=ハンガリー帝国軍の将兵40万8千人を捕虜とし、火砲581門を鹵獲した。ロシアの新聞は彼を国家の英雄と称えた。

ブルシーロフは皇帝ニコライ2世の退位と臨時政府の樹立を支持した。1917年5月から6月、臨時政府のもとでロシア軍最高司令官に就任し、戦争の継続を支持して、脱走兵に死刑を適用する命令を下達した。6月にケレンスキー攻勢を指揮したが、兵士が戦闘を放棄して失敗し、コルニーロフと交代させられた。十月革命は自宅で迎え、11月2日に赤衛隊の砲弾が彼のアパートに当たり、長い軍歴で初めて負傷した。のちにチェーカーに幽閉されたが、妻の陳情とジェルジンスキーの介入で釈放された。1920年からは赤軍に入隊し、息子と戦友が白軍に処刑されたことが影響したといわれる。1924年に退役し、その2年後の1926年3月17日、モスクワで72歳で死去し、ノヴォデヴィチ修道院に国葬として埋葬された。

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