伝記
シモン・ヴァシーリイェヴィチ・ペトリューラは、1879年にロシア帝国ポルタヴァ県の県庁所在地ポルタヴァの郊外で生まれたウクライナの民族主義者で、ソヴィエト政権に対抗した人物である。「シモン」はウクライナ人の名「セメーン」のフランス語名で、フランスとの関係が深かったことを示すという。父ヴァシーリは市内で運送業を営み、母は正教会の修道司祭の娘で、コサックの家系とされる。3人の兄弟と5人の姉妹がおり、うち3人は幼少期に亡くなった。13歳で教区教会の小学校に入り、司祭になるつもりで、1895年からポルタヴァの神学校で学んだ。在学中の1898年にハロマダに加わり、1900年には革命的ウクライナ党に入党したが、1901年にハロマダへの関与が発覚して神学校を放校された。
1902年にジャーナリズム活動を始めたが、逮捕の恐れから南ロシアのエカテリノダールへ移り、教師やクバーニ・コサック軍の文書係として働いた。1903年12月、党の支部をつくり、オーストリア領だったリヴィウの出版物に反帝政の記事を載せたとして逮捕され、保釈後はリヴィウに移った。のちにはペテルブルクやキエフ、モスクワで雑誌や新聞の編集に携わった。第一次世界大戦では、ウクライナ人はロシア帝国の臣民として皇帝への義務を果たすべきだと論じた。
1917年の二月革命後、ウクライナ中央ラーダの軍事委員長となったが、ドイツ軍の力でラーダは追われ、キエフにはパウロー・スコロパードシクィイの親ドイツ・保守政権が立てられた。その間に一時投獄されたが、1918年9月に釈放された。ウクライナ民族主義を唱えて農民らの支持を集め、ハリチナーからの帰還捕虜も加わった軍を編成した。ドイツ軍の撤退でスコロパードシクィイ政権が崩れると、1918年12月14日にキエフを掌握した。ただ、ロシア語の使用が禁じられウクライナ語が求められたため、ロシア人としての意識を持つ多くのウクライナ人は反感を抱き、嫌悪は都市部で特に激しかった。
1919年にウクライナ人民共和国の執政内閣の長となったが、同年2月には赤軍に首府を奪われた。この内戦の中で、ウクライナ人民軍は大規模なポグロム、つまりユダヤ人の虐殺を行い、数万人のユダヤ人市民の死に責任があるとされる。ペトリューラ自身の役割については論争が続いている。キエフはポーランド・ソビエト戦争の間に支配者が目まぐるしく変わり、劣勢に立った彼はピウスツキ率いるポーランドと同盟を結び、1920年5月にポーランド軍と連合して首府を奪回したが、6月に赤軍に完全に奪われた。ポーランド・ソビエト戦争はポーランドが独立を保って終わったが、ウクライナの大部分はソヴィエトの支配下に残り、ペトリューラは国外へ逃れた。当初はポーランドから亡命政府を指導し、1924年からはパリに住んだ。
1926年5月24日、昼食後にレストランを出たところを、前科のある無政府主義者でユダヤ人の宝石商シュワルツバルトに射殺され、翌25日に没した。動機は虐殺への復讐であった。裁判では弁護側が責任をペトリューラに負わせることに成功し、犯人は無罪放免となって、大きな波紋を広げた。
同じ年に亡くなった人物
- 加藤高明 (1926年没)
- ジョルジュ・ヴェジーナ (1926年没)
- ジェラール・コーレマン (1926年没)
- クリスチャン・ヨンソン (1926年没)
- ピエール・ドクルセル (1926年没)
同じ地域に関係する人物
- マッテオ・カルカッシ (1853年没)
- フェリックス・ジアン (1911年没)
- フランソワ・ド・ヌフヴィル (ヴィルロワ公) (1730年没)
- マリー・アンヌ・ド・ブルボン (1739年没)
- ミレーヌ・ドモンジョ (2022年没)