伝記
鴨長明は、平安時代の末から鎌倉時代の前期にかけての歌人・随筆家である。俗名は同じ鴨長明で、読みは「ながあきら」という。賀茂御祖神社(下鴨神社)の神事を統率する禰宜、鴨長継の次男として、京都で生まれた。生年は1153年か1155年とされ、1155年が通説である。幼いころから、恵まれた環境で、和歌と音楽を学んだ。高松院に愛護され、応保元年(1161年)、7歳で従五位下に叙された。しかし、1169年に父長継が病や政治の動きのために引退し、承安2年(1172年)ごろに亡くなると、後ろ盾を失った。跡を継ぐつもりだった十代後半の長明は、いとこが父の職に就いたため、はずされた。安元元年(1175年)、長継の後の禰宜、鴨祐季が、延暦寺との土地争いで失脚すると、長明は鴨祐兼とその後任を争ったが、敗れた。20代のころ、父方の祖母の家に移ったが、30代のころ、その家で後ろ盾を失って追い出され、鴨川のほとりに小さな家を建てて住んだ。
和歌は俊恵に学び、琵琶は楽所預の中原有安に学んだ。歌林苑の会衆となり、賀茂重保が撰んだ『月詣和歌集』に入り、『千載和歌集』にもよみ人しらずとして入った。1181年には、自選の和歌集『鴨長明集』を編んだ。「石川や瀬見の小川の清ければ月も流れを尋ねてぞすむ」の歌を賀茂社の歌合に出し、「せみの小川」は鴨川の異名であると判者の顕昭に告げた。のちにこの語を使った歌が多くつくられると、敵対していた禰宜の鴨祐兼から、「内々の雅名を勝手に吹聴し、聖地を世俗化させた」と激しく非難された。ところが、この歌をはじめ『新古今和歌集』に10首が選ばれると、長明は、「生死の余執ともなるばかり嬉しく侍るなり」と大変喜んだと、『無名抄』に記されている。建仁元年(1201年)8月には和歌所の寄人に任じられた。源家長は『源家長日記』に、長明が昼も夜も奉公を怠らなかったと、好意を持って記している。
元久元年(1204年)、かねて望んでいた河合社の禰宜の職に欠員が生じ、長明は就任を望んで、後鳥羽院から推挙の内意も得た。しかし、鴨祐兼が自分の長男祐頼を推して強く反対し、長明の望みは叶わず、神職としての出世の道は閉ざされた。後鳥羽院のとりなしにもかかわらず、長明は近江国の大岡寺で出家し、蓮胤を名のって、東山、のちには大原で過ごした。承元2年(1208年)、日野に移り、庵で閑居した。建暦元年(1211年)には、飛鳥井雅経の推挙を受けて、将軍源実朝の和歌の師として鎌倉へ下ったが、受け入れられず、うまくいかなかった。『文机談』には、出家のきっかけは、琵琶の師が亡くなった後、演奏を許されていない秘曲「啄木」を弾いたことが知られたためだとも伝えられている。
建暦2年(1212年)に『方丈記』が成った。和漢混淆文による文芸の祖で、日本の三大随筆の一つである。ほかに、歌論書『無名抄』、説話集『発心集』(建保4年(1216年)以前の成立)がある。『千載和歌集』以下の勅撰和歌集に、25首が入っている。1216年に亡くなった。岐阜県恵那市の旧岩村町には、鴨長明がこの地で没したという伝承があり、鎌倉を追われた長明を、御家人の加藤景廉がかくまったといわれる。
同じ年に亡くなった人物
- ショタ・ルスタヴェリ (1216年没)
- アンリ1世 (ラテン皇帝) (1216年没)
- ロベール・ド・クラリ (1216年)
- ザーヒル・ガーズィー (1216年没)
- イド・ド・ロレーヌ (1216年没)