伝記
ガストン・ルルーは、1868年5月6日にパリで生まれたフランスの小説家、新聞記者である。フランスの推理小説の創成期に、モーリス・ルブランと並ぶ人気を得た作家であった。衣料品店を営む富裕なノルマンディー出身の夫妻の子ともいわれるが、両親が結婚したのは彼の誕生の一か月後だったとも伝えられ、出自には異なる説がある。1880年に寮のある学校に入ると成績がよく、とくにラテン語が得意で、教師から作家か弁護士になることを勧められたという。1886年にパリでロー・スクールに入り、翌1887年には新聞に小説を発表した。卒業の年の1889年に母に続いて父を亡くし、100万フランの遺産を受けたが、弟妹3人を養ううちにたちまち使い果たしたとされる。
1890年に弁護士資格を得て試補として働き、1891年に法廷で『エコー・ド・パリ』紙のロベール・シャルヴェーと知り合い、法律や訴訟の記事を書くようになった。シャルヴェーの秘書も務め、やがて劇評を担当し、「刑事たちの館」などの戯曲も書いた。その後パリの新聞社に入って法廷記者として活躍し、海外特派員にも起用された。1902年に取材先のイタリアでジャンヌ・カイヤットと知り合い、同棲を始める。1904年には日露戦争を取材し、1905年にはロシア第一革命のルポルタージュを書き、中東にも取材に赴いた。1900年代初めから『テオフラスト・ロンゲの二重生活』などの怪奇小説を書き始め、1907年に新聞の文芸付録に推理小説『黄色い部屋の秘密』を連載して高い評価を得た。
この作品は英訳され、サイレント時代には何度も映画化された。人気を受けて新聞『ル・マタン』から続編を求められ、『黒衣婦人の香り』を執筆し、新聞記者ジョセフ・ルールタビーユを探偵役とするシリーズが続いた。1913年の第3作『ロシア皇帝のルールタビーユ』は、かつて取材したロシア第一革命を背景にしている。ディクスン・カーは人間心理の盲点を突いたトリックを評して「この種のものの最高傑作」と述べ、密室殺人ものの古典として今も高く評価される。一方、ハワード・ヘイクラフトのように、現代の読者向きではないとする評もある。日本では1915年に翻案され、雑誌『新青年』の海外探偵小説十傑(1937年)で江戸川乱歩と甲賀三郎がともに1位に挙げ、集計でも1位となった。
1910年にはオペラ座を訪れて不思議な噂話を聞き、それに着想を得て『オペラ座の怪人』を書き上げ、大評判となった。1922年にユニバーサル映画の社長カール・レムリに出会い、この小説を贈ったことが映画化につながり、ロン・チェイニー主演の作品が1925年に公開されて大ヒットした。以後も何度も映画化され、1986年にアンドリュー・ロイド=ウェバーが作ったミュージカルは、史上最大のヒットとなった。ほかにも怪人シェリ・ビビの連作や、SF、ファンタジー、歴史小説、政治小説など幅広く書き、多くは新聞に連載された。
大量の執筆をこなす人気作家だったが、1925年に健康を害し、視力も衰え始めた。それでも書き続け、1927年4月15日、ニースで手術後の尿毒症のため亡くなった。今日では推理小説や怪奇小説の書き手として語られることが多い。
同じ年に亡くなった人物
- ミゲル2世・デ・ブラガンサ (1927年没)
- Enrique Gomez Carrillo (1927年没)
- グスターヴ・ホワイトヘッド (1927年没)
- トゥルハン・パシャ・ペルメティ (1927年没)
- ゲーオア・ブランデス (1927年没)
同じ地域に関係する人物
- ポール・マソン (1945年没)
- ジョルジュ・ゲタリ (1997年没)
- ジャック・ドニオル=ヴァルクローズ (1989年没)
- Georgy Adamovich (1972年没)
- Jeno Landler (1928年没)