HISTORICAL PERSON · 1219年没

ウィリアム・マーシャル (初代ペンブルック伯)

初代ペンブルック伯。小地主の家に生まれ、若ヘンリー王ら5人の王に仕えて摂政となり、ヨーロッパで最も有力な人物の一人になった。騎士としては500以上の試合で一度も負けなかったという伝説を残した。

生涯
1219年没
死亡地
イギリス連邦(オックスフォードシャー / カヴァーシャム)
出生地
イギリス連邦(ウィルトシャー)
出典
世界地図
イギリス連邦(オックスフォードシャー)

伝記

ウィリアム・マーシャルは、1136年ごろまたは1144年ごろに生まれ、1219年5月14日に没した、プランタジネット朝イングランドの政治家で騎士、初代ペンブルック伯である。父はジョン・マーシャルで、王家の馬を管理する役を務め、その役名を姓とした。母は初代ソールズベリー伯パトリックの姉妹シビルである。無政府時代、父は初めスティーブンに仕えたが、1139年にヘンリー1世の娘マティルダに寝返った。1152年、ウィリアムが8歳ごろ、スティーブンの軍に城を包囲され、父が休戦を求めたため、ウィリアムは人質として敵陣へ送られた。父が約束を破り、スティーブンが彼を縛り首にすると脅すと、父は「好きにしろ、俺にはもっといい息子を作る金床と槌がある」と答えたという。しかしスティーブンの慈悲で殺されず、2か月人質にされたのち、1154年にヘンリー2世が即位してから、両親のもとへ戻された。12歳ごろ、ノルマンディーのタンカルヴィルにある、母の従兄弟ウィリアム・オブ・タンカーヴィルの城に送られ、騎士の修行を積み、1164年ごろに騎士に叙された。初陣のあと馬上槍試合に出場して勝ち、多額の身代金を得た。

1168年、伯父のソールズベリー伯が、王妃アリエノール・ダキテーヌの護衛中に、ギー・ド・リュジニャンの待ち伏せで殺された。ウィリアムも傷を負って捕虜になったが、アリエノールが身代金を払って釈放した。1170年にはヘンリー2世とアリエノールの嫡男、若ヘンリー王に騎士道を教える立場となり、1173年には若ヘンリー王を騎士に叙した。1176年に若ヘンリー王に従って大陸へ渡り、以後12年におよぶ武者修行に明け暮れ。1182年、若ヘンリー王の妃マルグリットとの不倫を非難され、王のもとを去ったが、1183年に王が反乱を起こすと戻って加勢し、急死した若ヘンリー王の最期を看取った。王は彼に、自らは果たせなかった十字軍参加の誓いを託した。1183年から1186年まで十字軍に参加し、聖地で死ぬ時はテンプル騎士団として埋葬されるよう誓った。

1187年からヘンリー2世に仕えた。1189年、ル・マンからシノン城への戦いで、反乱したリチャードを落馬させたが、殺さずに馬を殺した。ヘンリー2世は、シノン城でリチャードやフィリップ2世と休戦した直後に没し、ウィリアムはリチャード1世に仕え、ソールズベリーに幽閉されていた母アリエノールに、解放を告げる使者となった。1189年の秋、リチャードの戴冠式で王笏を持つ名誉を与えられ、リチャードの勧めで、17歳のイザベル・ド・クレアと結婚して、ペンブルック伯となった。1190年にリチャードが第3回十字軍に出ると、摂政に任命されたが、のちにリチャードの弟ジョンの側に付いた。1194年に同母兄ジョンが没し、軍務伯の役を継いだ。1199年にリチャードが没すると、ジョンの即位を支持し、1215年のマグナ・カルタ調印では、貴族との調整役を務めた。ジョンは死の床で、9歳のヘンリー3世のために尽くすよう彼に言い残した。

1216年11月11日、ウィリアムは摂政として幼いヘンリー3世に仕えた。フランス王太子ルイと反乱貴族を相手に戦い、リンカーンの戦いでは先頭に立った。1217年にマグナ・カルタが再発行されたときは、証人として署名した。1219年5月に死期を悟り、誓いのとおり、死ぬ前にテンプル騎士団に入団した。5月14日に75歳または83歳で死去し、ロンドンのテンプル教会に葬られた。長男は、彼の生涯を書いた『ウィリアム・マーシャル伝』を従者に命じて作らせ、1226年に完成した。

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