伝記
アラーウッディーン・ムハンマドは、1169年に生まれ、1221年1月11日に没した、ホラズム・シャー朝の第7代スルターン(在位1200年8月3日 - 1221年1月11日)である。スルターンのアラーウッディーン・テキシュと、テュルク系遊牧民カンクリ族出身の妃との間に生まれ、1200年に父が没すると、跡を継いで即位した。母のテルケン・ハトゥンは、王朝の軍事力の中核であるカンクリ族の指導者的な地位にあり、スルターンの彼と同等の権力を持っていた。母の寵臣は、王の彼でも罰することができなかった。
即位の直後に、ゴール朝のシハーブッディーン・ムハンマドの侵攻を受けたが、宗主国のカラ・キタイ(西遼)の援軍とともに撃退した。戦勝のあとは、ゴール朝の支配するヘラートとバルフを占領して、ホラーサーン地方の全土を支配下に収めた。歴代のスルターンは、仏教国のカラ・キタイに貢納を続けており、彼も国民も、異教徒への貢納を耐えがたく思っていた。彼は、貢納金を受け取りに来たカラ・キタイの使者を斬殺して、敵対の意思を明らかにした。1208年から1209年に、ホラズム軍はカラ・キタイ領に侵入したが、敗れて、アラーウッディーンは捕虜となり、従者の機転で、奴隷と身分を偽って帰国した。1210年に、タラス河畔でカラ・キタイの軍を破り、トルキスタンのカラ・キタイ領の一部を併合した。人々は彼に「第二のアレクサンドロス」の称号を与えようとしたが、彼は、40年を超える長い治世を保ったセルジューク朝のサンジャルにあやかって、サンジャルの異称を名乗った。1210年(あるいは1212年)に、西カラ・ハン国のウスマーンが、サマルカンドのホラズム人を虐殺すると、ホラズム軍はサマルカンドを攻撃し、ウスマーンを処刑して、西カラ・ハン国を滅ぼした。首都は、サマルカンドに移された。
1215年に、ガズナを占領すると、そこで、カリフ・ナースィルが、ホラズム領への攻撃を扇動する書簡を書いていたことが見つかり、アラーウッディーンは強い敵意を抱いた。同年、彼はアッバース朝に、金曜礼拝への自分の名の挿入と、スルターンの称号の授与を要求したが、拒絶された。彼は、アリーの子孫をカリフに擁立することを図り、イラン西部に進軍した。しかし、厳しい寒さと降雪、現地のトルコ人とクルド人の攻撃で、計画に狂いが出て、モンゴル帝国からの使節に応対するため、トルキスタンに帰った。後継者には、母の意思を尊重して、末子のウズラグ・シャーを選んだ。1218年の春、ブハラでモンゴルの使節団と会い、その要件が臣従であると知って激怒したが、モンゴルの兵力は微弱だと聞いて気を鎮め、好意的な返答を与えて帰した。同じ年に、オトラルの総督イナルチュクが、モンゴルの通商使節団をスパイの容疑で逮捕したと報告すると、使節団の処刑を命じた。モンゴルから総督の処罰を求める使者が来たが、母の親族であるイナルチュクを、彼は罰することができなかった。
1219年夏に、スブタイ率いるモンゴル軍と遭遇し、息子ジャラールッディーンが救援に来て、中軍が難を免れたが、決着はつかないまま、両軍とも引いた。その秋、モンゴル軍の大規模な侵攻を受け、1220年4月にサマルカンドを放棄して、イラクへの退却を決めた。マーザンダラーンに逃れ、カスピ海南西岸近くの小島に渡ったときには、肺を病んでいた。病が悪化すると、ジャラールッディーンを後継者に選び直して、王朝の再興を託した。2、3日ののち、1221年1月11日に没した。島に埋葬されたが、遺体を包む経帷子さえなかった。
同じ年に亡くなった人物
- ミカエル・コニアテス (1220年没)
- ボギスラフ2世 (ポメラニア公) (1220年代没)
- イングヴァリ1世 (1220年没)
- ティボー1世 (ロレーヌ公) (1220年没)
- アルブレヒト2世 (ブランデンブルク辺境伯) (1220年)
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