伝記
エドゥアール=アンリ・アヴリルは、1843年5月21日に当時フランス領だったアルジェで生まれ、1928年7月28日にパリ近郊のル・ランシーで没したフランスの画家・挿絵家である。「ポール・アヴリル」の筆名で、とりわけ性愛文学の挿絵で知られる。父は憲兵隊の大佐でレジオン・ドヌール勲章を受けた将校フランソワ=ジョゼフ・アヴリルで、次男のエドゥアール=アンリは、早くに父を亡くし、自身も軍人となった。
歩兵連隊の少尉として1870年の普仏戦争に従軍し、戦争の終結後にレジオン・ドヌール勲章を受け、その数か月後に負傷のため退役した。新しい進路を探していた彼は、マルセイユに赴いて美術学校の素描の授業に通い、美術を学び始めた。1874年から1878年まではパリの美術学校で、イジドール・ピルスやアンリ・レーマンの教室に学んだとされる。1878年から1884年にかけては、パリのサロンに本名で肖像画や風景画を出品した。
挿絵の仕事での最初の大きな成功は、1882年にアルベール・カンタン社から出たオクターヴ・ユザンヌの『扇』だったとされ、ユザンヌとアヴリルの出会いについてはフランシスク・サルセーが語っている。一方、テオフィル・ゴーティエの小説『フォルテュニオ』の挿絵を依頼され、ポール・アヴリルの筆名を使ったことで評判がたちまち固まったとも伝えられる。1880年にはゴーティエの『フォルテュニオ』が飾り文字や小さな挿絵つきで刊行され、1881年にはユザンヌの『心の驚き』、1883年には同じ著者の『世紀の秘められた風俗』と『日傘、手袋、マフ』、1884年には『バルバスーおじさん』の挿絵が続いた。以後、一流作家の作品や、当時「ガラント文学」と呼ばれた性愛文学の挿絵の依頼が相次いだ。これらの本は愛好家が組織した予約制で、少ない部数だけが売られるのがふつうで、書店の通常の販売経路には乗らなかった。官能的な書物には、検閲を逃れるためにでたらめな出版の表示が入れられることも多かった。
主な仕事には、ゴーティエの『カンダウレス王』や『クレオパトラの一夜』(1894年、アナトール・フランスの序文と21点の素描つき)、フローベールの『サランボー』、ジョン・クレランドの『ファニー・ヒル』(1906年ごろ)、ルーヴェ・ド・クーヴレの『フォブラスの恋』、ミシュレの『女』、シャルル・ノディエの『トリルビー』、ドゥノンの『明日なき日』、エクトール・フランスの『ブルヌスの下で』(1898年、兄が版画にした22点の構図つき)、ピエトロ・アレティーノの作品、作者不詳の官能小説『ガミアニ』がある。ピエール・ロティの『モロッコにて』には原画の水彩を寄せている。主要な作品とされるのは、ドイツの学者フリードリヒ・カール・フォルベルクの『西洋古典好色文学入門』の挿絵で、1906年にシャルル・イルシュ書店から出た。兄で版画家・写真家のポール・ヴィクトール・アヴリルとも協力し、兄がエッチングに起こした版画も多く、そのため二人はしばしば混同される。画家・素描家としての「ポール・アヴリル」の名は、1907年の『パリ・アシェット』にも載っている。
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