伝記
ロアール・アムンセンは、1872年7月16日にノルウェー南東部のボルゲで、海運業を営む一家の四男として生まれた探検家である。1888年にフリチョフ・ナンセンがグリーンランド横断に成功したことに感動し、探検家になることを決意した。母は彼が家業を継ぐのではなく医師になることを望んでいたが、21歳のときに母が没すると、大学を中途でやめて船乗りになった。1897年から1899年にかけてはベルギーの探検船ベルジカ号の航海士として探検隊に加わった。この船は南極海で流氷に閉じ込められ、期せずして南極初の越冬探検隊となり、アムンセンはここで極地の経験を積んだ。
次に挑んだのは、大西洋側から太平洋側へ北米の北を回る北西航路である。16世紀以来多くの航海者が氷に阻まれ、19世紀にもジョン・フランクリンの艦隊が全滅していた。この遭難はアムンセンに強い印象を与えた。1903年、借り入れで探検費用を整え、装備と船を差し押さえようとする債権者から逃げるように、乗員6名とともに47トンの鋼製機帆漁船ヨーア号で出発した。キングウィリアム島近くで2回越冬し、イヌイットから犬ぞりの使い方や獣皮の着方など、寒帯で生き残る術を学んだ。これが後の南極探検に生きた。1905年8月に北極諸島を抜けたものの、アラスカ沖で氷に閉ざされて3度目の冬を越し、氷上を800キロメートル歩いて電報を打ちに行った。翌年の夏に氷を脱し、ノームに入港して、史上初めて北西航路を船で横断した。1907年には王立地理学会から金メダルを授与された。
次の目標は北極点だったが、1909年にロバート・ピアリーの到達を知ると、ひそかに南極点へ目標を変えた。出資者や隊員には告げないまま、ナンセンから譲り受けたフラム号で1910年8月にノルウェーを出航し、マデイラ諸島のフンシャルで初めて乗組員に明かした。反対する者は下船してよいと告げたが、全員が賛意を示した。南極に向かうスコットには「我南極に向かわんとす」と電報を送っている。1911年1月に南極大陸のクジラ湾に上陸してフラムハイム基地を築き、10月20日に4人の隊員とともに出発した。4台の犬ぞりを52頭の犬に引かせ、未探索のコースを進んで、12月14日に人類初の南極点到達を果たし、1912年1月25日に一人の犠牲者も出さず基地へ戻った。体重の軽い犬と軽量化したそり、耐水性のあるアザラシの毛皮服など、極北で得た知識が先着の一因とされる。
帰還後は講演で負債を返し、独立後まもないノルウェーでは国民的英雄となった。その後は飛行機や飛行艇を探検に用い、1926年には飛行船ノルゲ号で北極点に到達し、人類で初めて両極点に達した人物となった。飛行機の購入や探検の費用に講演収入を使い果たして破産の憂き目にもあい、1925年には資産整理のため極地探検に使ったモード号を売却した。1927年には報知新聞の招待で来日している。1928年、遭難した飛行船イタリア号のノビレ隊の捜索に飛行艇ラタム47で向かって行方不明となり、のちにフロートとガソリンタンクだけがトロムソ沖で見つかった。2004年と2009年にはノルウェー海軍が無人潜水機で捜索したが、機体も遺体も見つかっていない。没したのは6月18日前後とされる。ノルウェーでは今も国民的英雄として語り継がれ、2011年12月14日の南極点到達100周年には南極点で記念式典が開かれた。
同じ年に亡くなった人物
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- Gonzalo Cordova (1928年没)
- Ernesto Schiaparelli (1928年没)
- サイイド・アミール・アリ (1928年没)
- フランツ・ルボー (1928年没)
同じ地域に関係する人物
- カール12世 (スウェーデン王) (1718年没)
- ヴィベケ・スコフテルート (2018年没)
- ハンス・ニールセン・ハウゲ (1824年没)
- Nils Eriksen (1975年没)
- オットー・ルーゲ (1961年没)