伝記
アルバロ・オブレゴンは、1880年2月19日にメキシコ北西部ソノラ州の農園で生まれた軍人・政治家である。生まれた年に父を亡くし、母が家を空けたため、年長の姉たちに育てられた。小学校を出たのちさまざまな職業を経験し、1903年に結婚したが、妻は1907年の出産の際に亡くなった。1906年にひよこ豆の新種を見いだして栽培と輸出を行い、富を得た。1911年に周囲の勧めで政界に入り、選挙で市長に就任した。1912年にマデロ政権に対してオロスコ派が蜂起すると、かねてより支持を得ていたマヤ・インディオからなる自警団を指揮して鎮圧した。1913年2月にビクトリアーノ・ウエルタがクーデターを起こすと、ソノラ州議会は反クーデターを表明し、オブレゴンを州軍司令官に任命した。
コアウィラ州知事ベヌスティアーノ・カランサが護憲主義を掲げてウエルタに対抗すると、オブレゴンはその護憲軍に加わった。戦況は護憲軍に有利に進み、1914年7月14日にウエルタは退陣してスペインへ亡命し、8月15日にオブレゴンの部隊はカランサとともにメキシコシティに入った。しかし、旧支配層との妥協を図るカランサに革命勢力が反発し、パンチョ・ビリャ率いる北部軍が12月に国土を制圧した。オブレゴンはカランサを支持して、ベラクルスを拠点にビリャやエミリアーノ・サパタに反撃し、1915年4月にはグアナファト州セラヤで、塹壕と機関銃を組み合わせた新しい戦法により、騎兵の突撃を繰り返すビリャ軍を大敗させた。この戦いで、砲撃を受けて右腕を失う重傷を負っている。7月に大統領に就いたカランサのもとで国防相に任命されたが、1917年2月に制定された新憲法の手続きに不満を示して辞任し、故郷でひよこ豆の栽培に戻った。
1919年にサパタがカランサの刺客に暗殺されると、労働者勢力が協力を求め、オブレゴンは6月に次期大統領選への立候補を表明した。再選が禁じられていたカランサが後継にボニージャスを指名したのに対し、オブレゴンは労働者地域連合を母体とする労働党などの支持を受けた。翌年1月にカランサがオブレゴンを逮捕しようとしたため、オブレゴンはソノラ州へ逃げた。州知事アドルフォ・デ・ラ・ウエルタがソノラ独立共和国を宣言して立憲自由軍がカランサに宣戦し、5月にメキシコシティに侵攻した。カランサは逃れる途中のプエブラ州で待ち伏せを受けて殺害された。9月の大統領選でオブレゴンは大差で勝利し、1920年12月1日に大統領に就任した。
在任の4年間には、石油産業でのアメリカとの良好な関係と、170万ヘクタールの土地を16万人の農民に分け与えた農地改革が成果として挙げられる。1923年にはアメリカの既得権益を認める代わりに政府の承認を得たが、議会は反発してデ・ラ・ウエルタを大統領候補に推し、同年12月に反乱が起きて内戦となった。反乱は翌年3月に鎮圧され、オブレゴンは参加した少佐以上の将校を銃殺した。後任にはカリェスが就いたが、1926年にカリェスは憲法を改め、連続再選のみを禁じて任期を6年にし、オブレゴンの再出馬を可能にした。再選に反対する将軍たちの反乱は鎮圧され、対立候補を退けたオブレゴンは1928年7月に再び大統領に選ばれた。しかし7月17日、メキシコシティのレストランで祝宴の最中に、カトリック過激派の神学生に顔面へ五発の銃弾を受けて暗殺された。犯人は翌年2月に銃殺刑に処された。
同じ年に亡くなった人物
- Ludwig von Pastor (1928年没)
- ラリー・シモン (1928年没)
- ヨハン・ルーズヴィー・ハイベア (1928年没)
- Tursunoy Saidazimova (1928年没)
- 楊増新 (1928年没)
同じ地域に関係する人物
- Jose Ignacio Pavon (1866年没)
- Soraya Jimenez (2013年没)
- ピタ・アモール (2000年没)
- ホセ・マリア・ベラウステ (1964年没)
- Jose Muguerza (1980年没)