伝記
トーマス・ハーディは、1840年6月2日、イングランド南部ドーセット州の州都ドーチェスター近郊の小さな村ハイアー・ボックハンプトンに生まれた小説家・詩人である。父は同名の石工の棟梁、母はサクソン系の地主の家柄のジマイマ・ハンドで、4人きょうだいの長男だった。村の周りにはのちに作品の舞台となるエグドン・ヒースのようなヒースの荒野が広がっていた。母が読書家だった影響で幼いころから本に親しみ、少年時代は病弱で、将来は牧師になろうと考えていたという。
1856年に学校を卒業するとドーチェスターの建築家ジョン・ヒックスのもとで年季奉公に入り、1862年にロンドンへ出てブロムフィールドの建築事務所で働いた。建築の懸賞論文や懸賞製図に当選する一方、夜はキングス・カレッジでギリシャ語、ラテン語、フランス語を学び、美術館や劇場に通い、詩作と読書に熱中した。ロンドンの煤煙で健康を損ね、1867年に故郷へ戻って小説を書き始める。最初の作品『貧乏人と淑女』は出版を認められず、原稿を査読したジョージ・メレディスが政治色の強さを案じたこともあって、ハーディは出版をあきらめ、原稿を破棄した。続く『窮余の策』『緑樹の陰で』は匿名で出版され、作者はジョージ・エリオットではないかと推測されることもあった。『コーンヒル・マガジン』編集長のレズリー・スティーヴンが『緑樹の陰で』に感動して『遥か群衆を離れて』を連載させ、ハーディの名で発表された同作によって小説家としての名声が確立した。この作品で、西イングランドの一地方を古いサクソン人の王国にちなんでウェセックスと呼ぶ設定が用いられている。
1870年にコーンウォールの教会修理に赴いて牧師夫人の妹エマ・ラヴィニア・ギフォードと知り合い、1874年に結婚してワンズワースで暮らした。のちにスターミンスター・ニュートンに移り、『帰郷』(1878年)を執筆する。1885年には、都会生活への不満と健康上の理由から田園生活を決意し、ドーチェスター近郊に自ら設計した家マックス・ゲートを建てて永住の地とした。ここで書かれた『ダーバヴィル家のテス』(1891年)は、「落ちた女性」に同情的な描写がヴィクトリア朝の中流階級の反発を招き、『日陰者ジュード』(1895年)は性、宗教、結婚の扱いによってさらに強い非難を浴びた。書店によっては茶色い紙袋に入れて売り、海外から焼いた灰を同封した抗議の手紙が届いたほどで、ハーディは小説の執筆から離れ、1898年に最初の詩集『ウェセックス詩集』を出版した。ボーア戦争や第一次世界大戦を詠んだ詩は、ルパート・ブルックやシーグフリード・サスーンらに強い影響を与えたという。
1905年のアバディーン大学を皮切りに、各地の大学から名誉博士号を贈られ、1910年にはノーベル文学賞に初めてノミネートされた。1911年にはメリット勲章を授与されている。1912年に妻エマを亡くして深い痛手を受けたが、2年後に39歳年下の秘書フロレンス・エミリー・ダグデイルと再婚した。それでも前妻が忘れがたく、詩を書いて気を紛らわせたという。1928年1月11日、風邪が原因でマックス・ゲートで没し、87歳だった。葬儀はウェストミンスター寺院で営まれ、灰は「詩人のコーナー」に、心臓のみはスティングスフォード教会の前妻の墓に納められた。
同じ年に亡くなった人物
- マリア・エルモロヴァ (1928年没)
- メダルド・ロッソ (1928年没)
- フリードリヒ2世 (バーデン大公) (1928年没)
- Adolphe Appia (1928年没)
- コスタス・カリオタキス (1928年没)
同じ地域に関係する人物
- メアリー・シェリー (1851年没)
- ジョセフ・ボックスホール (1967年没)
- ジョー・フライ (1950年没)
- トマス・ウェッジウッド (1805年没)
- ヒュー・グローヴナー (初代ウェストミンスター公爵) (1899年没)