HISTORICAL PERSON · 1928年没

レオシュ・ヤナーチェク

モラヴィア出身の作曲家。民族音楽の研究から生まれた発話旋律を着想の材料とし、オペラをはじめ管弦楽曲、室内楽曲、ピアノ曲、合唱曲を残した。オペラは1970年代以降に広く知られた。

生涯
1928年没
死亡地
チェコ共和国(モラヴィア・スレスコ州 / モラヴスカ・オストラヴァ)
出生地
チェコ共和国(フクヴァルディ)
出典
世界地図
チェコ共和国(モラヴィア・スレスコ州)

伝記

レオシュ・ヤナーチェクは、1854年7月3日に生まれ、1928年8月12日に没したモラヴィア(現在のチェコ東部)出身の作曲家である。モラヴィア地方の民族音楽研究から生み出された発話旋律、または旋律曲線と呼ばれる旋律を着想の材料とし、オペラをはじめ管弦楽曲、室内楽曲、ピアノ曲、合唱曲に多くの作品を残した。そのオペラは死後、1950年代にオーストラリアの指揮者チャールズ・マッケラスの尽力で中部ヨーロッパの外に出て、1970年代以降は広く知られるようになった。

モラヴィア北部の村で、父イルジーと母アマリアの10番目の子(14人きょうだい)として生まれた。祖父と父はともに教師で、音楽家でもあった。11歳のとき、息子の素養を見抜いていた父の意向で、ブルノのアウグスティノ会修道院付属の学校に入り、少年聖歌隊員となった。聖歌隊の指揮者パヴェル・クシーシュコフスキーの指導を受けたが、1866年に父が死去し、伯父ヤンの後見を受けることになった。1869年秋に王立師範学校の教員養成科へ入り、音楽のほか歴史、地理、心理学で優れた成績を収めた。1872年にアウグスティノ会修道院の聖歌隊副指揮者となり、1873年にはスヴァトプルク合唱協会の指揮者に就いた。この協会は主に織工で構成されていたが、ヤナーチェクの熱意でその水準はかなり高まったという。1874年に卒業したが、得た資格は音楽ではなく、チェコ語の学校で地理と歴史を教える資格であった。

師範学校長に勧められてプラハのオルガン学校で学び、アントニン・ドヴォルザークと出会って、その音楽を深く愛するようになった。またロシアを全スラブ民族の理想の源泉と位置づけ、独学でロシア語を学んだ。のちに生まれた2人の子にロシア式の名をつけ、1898年にはロシア愛好者協会を設立して1914年まで会長を務めた。1879年10月にはライプツィヒ音楽院に入り、翌1880年2月末にウィーンへ移ったが、授業に満足できず、正規の教育はもう必要ないと痛感した。ブルノに戻って校長の娘ズデンカと婚約し、1881年7月13日に結婚したが、夫婦関係は当初から不安定で、1890年に長男が2歳半で亡くなると事実上破綻した。

1882年9月にブルノにオルガン学校を設立し、自ら音楽理論を教え、1884年には音楽雑誌『ブデブニー・リスティ』を創刊した。1886年から民俗学者と協力して民俗音楽と民俗舞踊の収集・分析を行い、モラヴィアの民謡に強い関心を抱いた。19世紀末から20世紀初頭にかけては、作曲家よりも民俗音楽学者として名が通っていたといわれる。1891年にはモラヴィアの民俗的資料に基づく初のオペラ『物語の始まり』を完成させた。やがて民謡の旋律を直接用いる手法をやめ、1903年完成のオペラ『イェヌーファ』で独自の語法を確立した。完成の直前には、娘のオルガを病で失っている。『イェヌーファ』は1904年1月にブルノの仮設劇場で上演され、地元の評価は極めて高かったが、プラハの批評家たちはほとんど公然と敵意を示した。後年には『カーチャ・カバノヴァー』や、最後のオペラ『死の家より』などを残し、1918年には交響的狂詩曲『タラス・ブーリバ』を完成させた。

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