伝記
ジョチは、モンゴル帝国を築いたチンギス・カンの長男で、のちのジョチ・ウルスの始祖である。生没年は1182年または1184年ごろから1225年から1227年ごろのあいだとされ、はっきりしない。母ボルテはコンギラト族の出身で、10歳のときにテムジン(チンギス・カン)と婚約し、7年後の1178年ごろに結婚した。ところがジョチが生まれる前に、ボルテはメルキト族に襲われて捕らえられた。このことが、ジョチの出自への疑いを生んだ。
この出来事については記録の食い違いが大きい。『元朝秘史』は、ボルテがメルキト族の男に妻とされ、テムジンがジャムカらの連合軍を率いて奪い返したとし、ジョチの父が誰かは疑わしかったと読める。名の意味が「客」であることも、これを反映するといわれる。一方、『集史』は、連れ去られた時点ですでに身ごもっており、返還される道中にジョチが生まれたため「思いがけない客」を意味する名が付いたとする。同書は、兄弟のチャガタイやオゴデイとの間には絶えず不和があったが、トルイの一族とは常に合意があったとも述べている。テムジンは常にジョチを実子として扱ったが、チャガタイをはじめ、多くのモンゴル人は彼を私生児と見なしていた。ジョチ自身もこの噂に生涯悩んだという。もっとも、研究者の宇野伸浩は、有力な姻戚関係の担い手として常にジョチが選ばれていた点から、血筋を疑われて低く見られていたとは考えにくいと述べている。
1203年にケレイトを滅ぼした後、ジョチはオン・カンの弟ジャカ・ガンボの次女ベクトゥトミシュを妻に迎えた。その姉妹はトルイの妻となり、のちのジョチ家とトルイ家の密接な関係の一因と考えられている。長男オルダと次男バトゥ、そしてベルケらが、その子として知られる。1206年にテムジンがチンギス・カンとして推戴されると、長子のジョチには、本国から最も遠い西の地が所領として与えられた。イルティシュ川流域と4個の千人隊のほか、将来に征服される土地も含まれ、彼が領土を広げることが期待されていた。右翼軍を任された彼は、1207年にシベリアの森の民の遠征に赴き、オイラト族の指導者クドカ・ベキの案内でバイカル湖方面やエニセイ川流域の諸部族を服属させた。この結果、穀物や毛皮の交易、金鉱山を掌握し、ジョチ・ウルスが成立したとされる。
その後も戦場での働きは目覚ましい。1211年の金への遠征には、チャガタイ、オゴデイ、トルイとともに従い、右翼軍を率いた。その功で平陽一帯を投下領として与えられ、以後は代々ジョチ家の領地になった。1217年か1218年ごろには、スブタイと共にメルキト族の残党を殲滅し、捕らえたクルトガンについては、弓の腕を惜しんで助命を願ったものの、チンギス・カンに強く拒まれ、処刑したという。1218年からはキルギズ族らの叛乱を鎮め、さらに西進して、1219年にはホラズム・シャー朝との戦いに関わった。ホラズム遠征では、北方の都市や部族を征服した主要な司令官の一人となったが、この遠征を経て弟たちや父との関係が悪化し、その軋轢は最後まで解消されなかった。遠征の前には、後継者の指名をめぐり、チャガタイが「メルキトの私生児」に従えないと激しく抗議したという逸話が『元朝秘史』にあるが、後世の挿入とも考えられている。
同じ年に亡くなった人物
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