伝記
チンギス・カンは、1162年5月31日(諸説あり)に生まれ、1227年8月25日に没した、モンゴル帝国の初代皇帝(在位1206年〜1227年)である。チンギス・カンは君主号で、本名はテムジンといい、のちにクビライから廟号を太祖、諡を法天啓運聖武皇帝と追尊された。抗争していたモンゴルの遊牧民諸部族を一代で統一し、中国、中央アジア、イラン、東ヨーロッパなどを次々に征服して、当時の世界人口の半数以上を統治する世界帝国の基盤を築いたとされる。死後、帝国は百数十年を経て解体されたが、遊牧民の偉大な英雄として賞賛され、故国のモンゴル国では国家創建の英雄と称えられている。
テムジンはキヤト氏のイェスゲイ・バアトルの長男として生まれた。『元朝秘史』や『集史』は、誕生の直前にイェスゲイがタタル部族の首長テムジン・ウゲを捕えて連行したため、息子にその名をつけたと伝える。イェスゲイは、モンゴル部族をまとめ、ケレイト部のトオリルと義兄弟の関係を結んでいた。息子の嫁を探してコンギラト部のデイ・セチェンの娘ボルテと婚約させ、テムジンを預けて帰る途中、タタル部族に毒を盛られて世を去った。すると、モンゴル部内ではタイチウト氏が主導権を握り、イェスゲイの勢力は一挙に崩れた。残された一家はタイチウト氏の首長タルグタイ・キリルトクらにモンゴル部族から追い出されたが、妻ホエルンは苦しい状況の中で子供たちをよく育てた。成長したテムジンは、脅威を恐れたタルグタイらに捕らえられて幕営に抑留されたが、脱走し、スルドス氏のソルカン・シラの助けもあって家族のもとへ戻った。
成人して、婚約者だったボルテと結婚したが、まもなくメルキト部の兵団に幕営を襲われ、ボルテを奪われた。テムジンは、亡き父の同盟者トオリル・カンや、盟友のジャムカと同盟し、メルキト部を攻めて妻を救い出した。その後、寛大な振る舞いから優れた指導者と目され、かつて父に仕えた戦士や遊牧民が次々に彼のもとに投じ、キヤト氏の有力者たちに推されてカンとなった。ジャムカとの関係は冷え込み、1190年頃の十三翼の戦いでは、勝敗が史料により食い違うが、『秘史』によればテムジンが敗れたとみられる。ジャムカが味方の捕虜を釜茹でにして人望を失ったため、テムジンのもとに投ずる部族が増えた。
1194年には金朝の討伐軍に加わってタタル部族の長を討ち、父の仇を倒す機会を得た。1196年には従わなかったジュルキン氏を討って反対派を一掃し、1200年にはオン・カンとともにタイチウト氏を破って、タルグタイ・キリルトクを討ち取った。1201年、ジャムカを盟主とする東方の諸部族の同盟を、あらかじめ計画を知って破ったが、この戦いでテムジンは首を矢で射抜かれ、瀕死となった。僚友ジェルメの応急処置で助かると、自分を射た射手ジルゴアダイに「ジェベ」の名を与えて配下とした。1202年にはタタル族を殲滅して、ついに父の仇を討った。同じ年、オン・カンの嫡男イルカ・セングンが縁談に気分を害してジャムカらと組み、テムジンの暗殺を企て、翌1203年に戦いとなった。劣勢のテムジンはバルジュナ湖で立て直し、同年秋にオン・カンの本営を急襲して大勝し、高原最強のケレイト部は壊滅した。1204年にはナイマン部のタヤン・カンを破り、ジャムカは戦線を離脱した。
同じ年に亡くなった人物
- ルノー1世 (ダンマルタン伯) (1227年没)
- マルコ1世サヌード (1227年)
- Oliver von Paderborn (1227年没)
- アル=ムアッザム・イーサー (1227年)
- スレイマン・シャー (1227年没)
同じ地域に関係する人物
- 李元昊 (1048年没)