伝記
レシェク1世は、サンドミェシュ公で、3度の廃位期間を除いて、1194年から1227年にかけてポーランド大公の地位にあった人物である。1184年から1186年ごろに生まれ、1227年11月24日に没した。美しい白髪をもっていたことから、「白公」と呼ばれた。父はカジミェシュ2世(正義公)、母はズノイモ公コンラート2世の娘ヘレナで、存命の息子としては最年長であった。弟にコンラト1世がいる。
1194年5月5日に父が没したとき、レシェクはまだ9歳か10歳であった。摂政をつとめたのは母のヘレナで、クラクフの総督ミコワイ・グリフィタや、クラクフ司教フルコの助けに頼った。しかし、伯父のミェシュコ3世は、これを認めず、クラクフを取り戻そうとして、1195年に戦いが始まった。レシェクと弟の側には、クラクフとサンドミェシュの貴族と、ヴォルィーニのロマン公が加わった。9月13日、モズガヴァで、きわめて血なまぐさい戦いが行われ、息子を失ったミェシュコ3世は退いた。この撤退により、レシェクは、その後の3年間、権力を保つことができた。しかし1198年、ミェシュコ3世は、ヘレナとの取り決めで、クラクフの支配を取り戻した。ヘレナは、息子に代わってクラクフの支配を手放し、マゾフシェなどの権利を認められた。ミェシュコ3世は、1199年の短い中断を除き、1202年3月13日に没するまで、クラクフを支配した。
1200年ごろ、成人して自ら統治を始めたレシェクとコンラトは、領地を分け、コンラトはマゾフシェとクヤヴィを、レシェクはサンドミェシュだけを受け取った。ミェシュコ3世の没後、ミコワイ・グリフィタは、レシェクの最も近い協力者ゴヴォレクの罷免を求めたが、レシェクは強く拒み、ミコワイは、ミェシュコ3世の末子ヴワディスワフ3世(細足公)を、クラクフの支配者に招いた。1205年には、弟のコンラトとともに、ルテニアのロマン大公を撃破した。ヴワディスワフ3世の統治は、数か月で終わったとも、1206年、あるいは1210年まで続いたともいう。ミコワイの死後、クラクフの貴族は、条件なしでレシェクに統治を求めた。1207年、教皇インノケンティウス3世の求めに応じて、ポーランドを教皇の封土と認め、ポーランドは教皇派の陣営に加わった。この後、教皇の改革を進めていたグニェズノ大司教と強固な同盟を築いた。同じ年に、ルツク公イングヴァルの娘グジミスワヴァ(1258年没)と結婚し、1男1女が生まれた。
レシェクは、東のハーリチ・ルーシをめぐってハンガリーと戦ったが、影響力を及ぼせず、ハンガリーと共同でこの地域に進出することを決め、娘のサロメアを、ハンガリー王アンドラーシュ2世の息子カールマーンに嫁がせて、カールマーンをハーリチの君主とした。しかし1214年に、亡きロマンの息子ダヌィーロが勢力を回復し、この試みは失敗に終わった。1227年11月24日、諸公会議に出席した際に暗殺された。命じたのは、グダニスク公シフィエントペウク2世とみられ、ヴィエルコポルスカ公ヴワディスワフ・オドニツが裏で糸を引いていたとされる。
同じ年に亡くなった人物
- ホノリウス3世 (ローマ教皇) (1227年没)
- Oliver von Paderborn (1227年没)
- ハインリヒ5世 (ライン宮中伯) (1227年没)
- ルノー1世 (ダンマルタン伯) (1227年没)
- スレイマン・シャー (1227年没)
同じ地域に関係する人物
- ツヴィ・カリシャー (1874年没)
- テレサ・チェプラ (2006年没)
- アンナ・ヴァーサ (1625年没)
- リヒャルト・ヒルデブラント (1952年没)
- ヤン1世 (ポーランド王) (1501年没)