伝記
アルフレート・ロータル・ヴェーゲナーは、1880年11月1日、ベルリンで牧師リヒャルト・ヴェーゲナーと妻アンナの間に生まれたドイツの気象学者である。5人の子の末っ子で、そのうち2人は幼くして亡くなった。ベルリン大学で天文学を専攻し、ハイデルベルク大学とインスブルック大学にも学んだが、極地探検にあこがれて気象学にも打ち込んだ。1905年ごろに天文学の博士号を取り、気象台で働く兄クルトのもとに助手として雇われ、気球を使った高層気象観測や天文観測の先駆的な研究に携わった。1906年には兄とともに気球に乗って滞空コンテストに参加し、52.5時間という当時の世界最長記録を達成している。
同じ1906年にデンマーク探検隊の遠征に応募して、グリーンランドに約2年間滞在した。これが彼のグリーンランド探検の最初で、北東岸の地図作りを手伝い、多くの極地気象のデータを集めた。とくに極地で気球を使って上層大気を調べたのはこれが初めてであり、気象学者の注目を集め、ケッペンと親しくなる機会にもなった。のちにその娘と結婚している。1908年からはマールブルク大学で教え、のちに標準的な教科書となる『大気の熱力学』のもとになる講義を行った。1910年、世界地図を眺めていて、南アメリカ東海岸とアフリカ西海岸の輪郭がよく似ていることに気づいた。これが大陸移動のアイデアの元となり、1912年にフランクフルトで開かれたドイツ地質学会で初めて大陸移動説を発表した。
1914年に第一次世界大戦が始まると陸軍中尉として従軍したが、二度目の負傷で心臓が悪いことがわかり、後方で気象調査の任務に回された。その間に研究を進め、1915年の主著『大陸と海洋の起源』で、地質学・古生物学・古気候学などの資料をもとに、中生代には大西洋が存在せず、大陸が分離して移動を始めて大西洋ができたと主張した。専門が気象学で地質学は専門外だったうえ、当時の地質学は化石の研究や層序学を主流としていたため、主張は認められなかった。1919年に義父ケッペンの後任としてハンブルクの海洋観測所気象研究部門長となり、第2版、1922年には第3版を出した。1924年にはオーストリアのグラーツ大学の教授となった。1929年の第4版では、すべての大陸がかつて一つの巨大大陸パンゲアであり、約2億年前に分裂して漂流したと説いたが、地質学者らは陸橋説で化石の分布を説明して批判し、原動力を説明できないこの説は再び否定された。第4版でマントル対流に触れながら、それが原動力だとは自身も気づかなかった。
ヴェーゲナーは大気熱力学でも業績を上げたが満足せず、大陸移動説の根拠を探すため、自らを隊長として再びグリーンランドへ向かった。1930年11月1日、ちょうど50歳の誕生日に、グリーンランド人のビルムセンと2人で、補給物資を持って400キロ離れた西岸基地に戻るため、雪嵐の中を出発したが、遭難した。翌年5月12日、捜索隊が基地から190キロの地点で、立てられたスキーの下にある遺体を発見した。心臓発作か何かで亡くなり、ビルムセンが遺体を埋葬したと考えられているが、彼もその後遭難した。説は1950年代から1960年代にマントル対流の仮説や古地磁気学の発見で息を吹き返し、プレートテクトニクス理論の土台として再評価されている。
同じ年に亡くなった人物
- Vladan Dordevic (1930年没)
- フランク・ラムゼイ (数学者) (1930年没)
- ランドル・デイヴィッドソン (1930年没)
- ウラジーミル・マヤコフスキー (1930年没)
- マックス・ヴァリエ (1930年没)
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