伝記
ウィリアム・ハワード・タフトは、1857年9月15日、オハイオ州シンシナティ近郊の名家タフト家に生まれた。母ルイーザ・トーリーはマウント・ホリヨーク大学の卒業生で、父アルフォンソ・タフトは著名な共和党員だった。父は1839年にシンシナティで弁護士を開業し、ユリシーズ・グラント大統領のもとで陸軍長官を務めた人物である。ウッドワード高校を経てイェール大学へ進み、父が共同で結成した秘密結社スカル・アンド・ボーンズに加わった。体格から「ビッグ・ラブ」とあだ名され、大学の友人からは「オールド・ビル」と呼ばれた。生涯にわたって体重をからかわれ、のちにフィリピンから「今日は乗馬を行ったが、良い感じであった」と電報を送ると、陸軍長官エリフ・ルートは「馬はいかがでしたか」と返したという。1878年に121名中2番の成績でイェールを卒業し、シンシナティ・ロー・スクールを経て1880年に法学位を取得した。
法曹界に入るとハミルトン郡の検察官に任命され、1882年には内国歳入局の徴収官となった。1886年に長年の恋人ヘレン・ハロンと結婚し、1887年にオハイオ州の高等裁判所判事に任命された。1890年、ベンジャミン・ハリソン大統領から訟務長官に任命された。任命当時32歳で、2010年1月の時点でも最年少の訟務長官だという。1891年には新設の第6連邦巡回区控訴裁判所の判事となり、1896年から1900年まで、裁判官を務めながらシンシナティ大学法学部の教授と初代学部長を兼ねた。1900年、ウィリアム・マッキンリー大統領は、米西戦争の結果譲り受けたフィリピンの文民政府組織委員会の長にタフトを指名した。1901年から1904年までフィリピンの初代知事を務め、1904年にはセオドア・ルーズベルト大統領が陸軍長官に指名した。この時期に訪日し、桂太郎首相と、日米間の合意である桂・タフト協定の成立に関わった。
ルーズベルトは2期を務めて1908年の出馬を辞退し、後継の共和党候補にタフトを指名した。タフトは民主党のウィリアム・ジェニングス・ブライアンを破って第27代大統領となった。国内では独占禁止、官公庁の改革、州際通商委員会の強化、郵政業務の改善、憲法修正第16条の通過などに力を入れ、対外政策では「ドル外交」と呼ぶ、経済力を背景に武力を使わず発展途上国の発展を促す方針を掲げた。しかし東アジアでは列強の反発を招いて頓挫し、中米ではアメリカ自身が武力介入を余儀なくされた。共和党のリベラル派との対立が続くなか、1912年の党指名はタフトが勝ち取ったが、ルーズベルトが新党の革新党(ブル・ムース党)から立候補して共和党票が割れ、民主党のウッドロウ・ウィルソンが勝利した。ポトマック川河畔の桜は、タフトの在職中に東京市長尾崎行雄から贈られたものである。1910年には大統領として初めて大リーグの始球式を行った。
大統領を退いた後は、学術や調停、世界平和の追求に時間を費やした。1921年、ウォレン・ハーディング大統領により、第10代連邦最高裁判所長官に任命された。法廷の運営を効率化するため1925年の裁判所法の成立を主張し、同年にはカルビン・クーリッジの就任式で宣誓を執り行った。1930年まで長官を務め、同年3月8日に死去した。行政府と司法府の双方の長を務めた唯一の人物である。
同じ年に亡くなった人物
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- エヂュアート・ダヴィッド (1930年没)
- ヨハネス・フォルケルト (1930年没)
- バレリアノ・ウェイレル (1930年没)
- カール・パンズラム (1930年没)
同じ地域に関係する人物
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