伝記
ミゲル・プリモ・デ・リベラは、1870年1月8日に生まれたスペインの軍人で、第2代エステーリャ侯爵である。1923年から1930年まで独裁的にスペインを統治した。国王アルフォンソ13世からは「余のムッソリーニ」と呼ばれたという。家はアンダルシアのヘレス・デ・ラ・フロンテーラの土地を持つ軍人の名家で、父は退役した大佐であった。曾祖父は、ナポレオンに対するスペインの抵抗で英雄とされた将軍である。叔父は第2次カルリスタ戦争を終結させた功により、新設のエステーリャ侯爵に叙されており、その死後に爵位を継いだ。若い頃は歴史や工学を学んだのち軍人を志し、新設されたトレドの総合士官学校に入って1884年に卒業したとされる。
士官としてはモロッコ、キューバ、フィリピンでの植民地戦争に従軍した。北モロッコのリーフ地方のベルベル人との戦いでは勇気と主導性を示し、昇進と叙勲を重ねた。しかしスペインはこの北アフリカの植民地を保てないのではないかと考えるようになり、支配できないなら撤退すべきだと結論した。1898年には米西戦争での屈辱的な敗北を目にし、政治家や議会制度への批判を強めた。1902年にキューバ系の若い女性カシルダと結婚して6人の子をもうけたが、彼女は1908年に亡くなった。放埓な逸話も多く、猛烈に働いたあと、突然消えて踊りや酒に興じたとも伝えられる。1911年10月のケルト戦役では連隊を率いて負傷し、同年に准将、のちに少将、中将へと昇進し、バレンシア、マドリード、バルセロナの軍管区を預かった。
第一次世界大戦後のスペインは経済が落ち込み、労働運動が先鋭化し、カタルーニャやバスクでは自治・独立を求める動きが強まっていた。1920年からはスペイン領モロッコでリーフ戦争が続いていた。1923年9月、バルセロナ総督だったリベラは軍部や大土地所有層の支持を得てクーデターを起こして成功し、事前に内々に承認していた国王から首相に任命された。議会を解散して1876年憲法を停止し、言論統制を行い、哲学者ウナムーノをフエルテベントゥーラ島に流すなど、労働運動や地方自治運動を弾圧した。当初は90日だけ統治すると言ったが、そのまま権力にとどまり、軍人による総裁政府を率いた。1925年12月、アルウセマス上陸でリーフ人の抵抗が終わると、文民による政府に切り替えた。
国家の強化を目指して低金利政策で中産階級の生活水準の向上を図り、公共工事でインフラを整備した。一方で貴族の特権の制限や軍の改革にも取り組んだが、そのために支持を失った。放漫な財政から国の財政は破綻寸前となり、1926年に議会を復活させ、軍人が占めていた地方の知事に文官を任命するなど譲歩を強いられた。1927年には与党として愛国同盟を結成し、ムッソリーニのような一党独裁を目指した。しかし1928年からペセタが下落し、軍や地主、資本家も離れ、クーデター未遂も繰り返された。それでも2回目のバルセロナ万博は何とか開催にこぎつけた。1929年に世界恐慌が及ぶと経済政策は行き詰まり、1930年1月にアルフォンソ13世から退陣を迫られて「健康の悪化」を理由に辞職した。数か月後の3月16日、亡命先のパリで死去した。息子のホセ・アントニオは、のちにファシスト政党のファランヘ党を結成した。
同じ年に亡くなった人物
- Andon Zako Cajupi (1930年没)
- Anton Malej (1930年没)
- オットー・スヴェルドルップ (1930年没)
- サンテリ・アルキオ (1930年没)
- ヘンリー・アーネスト・デュードニー (1930年没)
同じ地域に関係する人物
- ジュール・ド・ポリニャック (1847年没)
- ジョゼフ・ベルトラン (1900年没)
- ドミニク・ザルディ (2009年没)
- クロード・シェソン (2012年没)
- マリー・ド・ブルボン=ソワソン (1692年没)