伝記
フリッツ・プレーグルは、1869年9月3日、オーストリア・ハンガリー二重帝国領のリュブリャナ(現在のスロベニアの首都)に生まれた化学者、医師である。スロベニア語を話す父とドイツ語を話す母のもとに生まれ、洗礼名はフリードリヒ・ミヒャエル・ライムント・プレーグルといった。スロベニアとオーストリアの双方にゆかりのある化学者とされる。
グラーツ大学で医学を学んで研究の道に入り、化学や組織学にも取り組んだ。のちに同大学で化学の助教授となり、1904年からその職にあったとされる。関心は生理学、とりわけ化学生理学にあり、動物と人間の胆汁酸の化学的な構成を調べる研究から出発した。しかしこの研究で得られる試料はごくわずかで、従来の有機化合物の定量的な元素分析では限界があった。そこで分析に必要な試料の量を減らす工夫を重ね、研究を終える頃には、分析に必要な最小の量を50分の1にまで減らしたという。彼は化学者たちに自分の分析法を学ぶよう呼びかけ、この方法は間もなく広く受け入れられた。燃焼管を用いる元素分析の技術も改良し、ごく微量の試料から臨床的な化学分析ができるようにして、ホルモンや酵素、代謝の研究にも道を開いた。
1910年にインスブルック大学へ移って生化学を教え、1913年にグラーツ大学へ戻り、医化学研究所の所長となった。1917年には『有機化合物の定量的微量分析』を著している。1923年、有機化合物の微量分析法の開発という功績によってノーベル化学賞を受けた。
1930年12月13日にグラーツで亡くなり、インスブルック大学の西にある墓地に葬られた。1950年にはグラーツ大学で彼が働いた部門が「医化学研究所およびプレーグル研究室」と名づけられた。グラーツ、インスブルック、ウィーン、クラーゲンフルトにはその名を冠した通りがある。スロベニアでは、2007年から国立化学研究所が研究や優れた博士論文にプレーグル賞を毎年授与しており、リュブリャナにも彼の名の広場がある。オーストリア科学アカデミーは、遺産の資金により、1931年から毎年フリッツ・プレーグル賞を化学の分野に授与している。
同じ年に亡くなった人物
- ウォルデマール・ハフキン (1930年没)
- ハーバート・ヘンリー・ダウ (1930年没)
- ヘンリー・アーネスト・デュードニー (1930年没)
- メアリー・ウィットン・カルキンス (1930年没)
- Maria Orska (1930年没)
同じ地域に関係する人物
- ヨーゼフ・マルクス (1964年没)
- ジャック・ウンターベガー (1994年没)
- ヨハン・バプティスト・フォン・エスターライヒ (1859年没)
- ヘルマ・サボー (1986年没)
- マリア・アンナ・フォン・バイエルン (1551-1608) (1608年没)