HISTORICAL PERSON · 1930年没

イリヤ・レーピン

ロシア帝国の画家・彫刻家で、移動派を代表する。心理的洞察を備えた写実画で名高く、貧困や差別に苦しむ最下層の人々も多く題材にした。

生涯
1930年没
死亡地
ロシア連邦(サンクトペテルブルク / クオッカラ)
出生地
ウクライナ(チュグエフ)
出典
世界地図
ロシア連邦(サンクトペテルブルク)

伝記

イリヤ・レーピンは、1844年8月5日(ユリウス暦7月24日)に生まれた、移動派を代表するロシア帝国の画家・彫刻家である。生地はハリコフ近郊で、スロボジャーンシュチナと呼ばれるウクライナの歴史的地域の中心部にあたる。両親はロシア人入植者(屯田兵)で、民族的にはウクライナ人ではない。1866年に地元のイコン画家イワン・ブナコフのもとで徒弟として修業を積み、肖像画の予備的な勉強をしてからサンクトペテルブルクに上京し、短期間で入学を許された。

美術アカデミーの卒業制作『ヤイロの娘の蘇生』で受賞し、国費の海外留学生となった。このとき皇太子アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ(のちの皇帝アレクサンドル3世)から、さまざまな条件を付けた絵画制作の依頼を受けたとされる。1873年から1876年まで、アカデミーの許可を得てイタリアとパリに遊学した。パリではフランス印象主義の絵画に触れ、色と光の使い方に永続的な影響を受けたが、画風はなおレンブラントら西欧の古い巨匠に近く、レーピン自身が印象派に属することはなかった。留学から1年半後の1878年2月に、自由思想の「巡廻美術展協会」(通称は移動派)に入会する。この団体は、彼が上京したころにアカデミーの官学的な形式主義と闘ったグループだった。1870年代前半に描いた『ヴォルガの舟曳き』を巡廻美術展に出品したことで名声が確立した。重労働に就く多くの貧民を描いた作品である。1882年からはサンクトペテルブルクに住むようになったが、しばしばウクライナへ帰郷し、外国旅行にも出かけた。

1881年、アレクサンドル2世が暗殺される直前に、ロシアの革命運動を扱う一連の絵画『懺悔の拒否』『ナロードニキの逮捕』『思いがけなく』に着手した。なかでも『思いがけなく』は、革命を題材とする風俗画の傑作とされる。大作『十字架行進』(1880年〜1883年)は、さまざまな社会階層とその緊張した関係を、一つの伝統的な宗教行事に託して描いた。1885年には、怒りのあまり息子を殴って深手を負わせ、正気に戻って死にゆく息子を抱きしめて恐れおののくイワン雷帝を描いた、心理的にもっとも強烈な『イワン雷帝と皇子イワン』を完成させる。最も手の込んだ絵画とされる『トルコのスルタンへ手紙を書くザポロージャ・コサック』は、1870年代の末に着手され、1891年にようやく完成した。レーピンはこの画題に自由・平等・博愛の理念を見ていたといい、完成後すぐにツァーリに3万5千ルーブルで買い上げられた。それまでのロシア絵画に支払われた最高額だった。

成熟期には、トルストイ、メンデレーエフ、トレチャコフ、シェフチェンコら著名人の肖像を数多く描いた。1881年には死の迫ったムソルグスキーを描き、ムソルグスキーの死後、その肖像画を売って埋葬費用にあてたという。1903年にはロシア政府の依嘱で、国家評議会創設100周年の式典を描く、自身最大の画布を制作した。

サンクトペテルブルクの真北に「ペナトゥイ」と名づけた自宅を構えていたが、1917年のロシア革命とフィンランド独立で土地はフィンランド領となった。レーピンはそのまま残り、ソ連政府の帰国要請を断り続けた。革命後のボリシェヴィキの残虐行為に反発し、晩年のインタビューで彼らを「強盗、殺人者」と呼び、ソビエトロシアには決して戻らないと語った。右手の障害に加え、画布も手に入りにくくなったため、リノリウムを代わりに用いて創作を続けた。1930年9月29日、クオッカラで世を去った。ペナトゥイは1940年に美術館として公開された。

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