伝記
哀宗は、金の第9代皇帝である。女真名は寧甲速といい、1198年9月25日に、宣宗の三男として生まれた。母は宣宗の妃の王氏である。のちに改めた漢名は守緒で、緒は糸の端の意味で、皇室を守るという意味合いがあった。宣宗が即位すると、遂王に封じられ、殿前都点検使に任じられた。貞祐4年(1216年)に、皇太子であった長兄の守忠が早世し、その子も夭折したため、代わって皇太子に立てられ、枢密使に任じられた。元光2年12月(1224年1月)に宣宗が亡くなり、即位した。廟号は、はじめ混乱して義宗と称された時期もあり、哀宗に統一されたのは、元代の初めと考えられている。
この時代、かつての金の領地の北部はモンゴル帝国に奪われ、都もモンゴル軍を避けて開封府に移されていた。哀宗は、衰えた金を立て直そうと、腐敗した無能な官僚を除き、税を軽くし、南宋との戦争をやめ、条約の義務を取り消して、軍事力をモンゴルへの抵抗に振り向けた。1224年には、妃の徒単氏を皇后に立てた。同じくモンゴルの圧迫を受けている西夏との同盟に活路を求めたが、正大4年(1227年)に西夏が滅びると、金は、ふたたびモンゴル軍の攻撃目標となった。そのころ、獄に繋がれていた完顔陳和尚を惜しんだ哀宗は、彼を釈放して軍務に復職させた。陳和尚の活躍で、一時はモンゴル軍を破ったが、正大8年(1231年)に、金軍の拠点である河中府が陥落し、天興元年(1232年)には、都の開封府がモンゴル軍に包囲された。
1232年の三峰山の戦いで、陳和尚が戦死し、モンゴルが大勝して、金の衰退は決定的となった。金は何度かモンゴルに和議を申し出たが、弟のトルイを金との戦いのなかで失ったオゴデイ・カアンは、哀宗を弟の仇敵として、一切の交渉を拒んだ。開封では疫病も流行し、50日ごとに90万を超える死体が、城の外へ運び出された。追い詰められた哀宗は、1232年の終わりに、皇太后が気前よく費用を出した護衛とともに開封を逃れ、黄河を渡って帰徳府へ向かい、亳州、さらに蔡州へ逃げたが、追撃は続いた。モンゴルに従う漢人の将軍史天沢は、蒲城で、8万の金軍を破った。1233年の8月には、モンゴルが同盟していた南宋に唐州を攻めさせた。哀宗は、モンゴルが金を滅ぼせば、次は南宋を攻めると警告する使者を送ったが、南宋は聞き入れなかった。
天興3年(1234年)2月9日、北のモンゴル軍と南の南宋軍が、蔡州城を完全に包囲した。進退きわまった哀宗は、軍の統帥だった完顔氏の傍流の呼敦、末帝に、皇位を譲ると宣言した。呼敦が断っても、哀宗は、「私は太っていて、馬に乗って戦えない。城が落ちれば、馬で逃げることも難しい。あなたは体が丈夫で、軍事の才もある。逃げられれば、王朝を残し、いつか再起できるだろう」と言った。呼敦はしぶしぶ受けた。哀宗は、城中の幽蘭軒で、自ら首をくくって亡くなった。その半日後、モンゴルと南宋の連合軍の攻撃で、蔡州城の金軍は全滅し、金は滅亡した。呼敦は、哀宗の死の知らせを聞き、追悼の儀式を行ったが、儀式が終わるころには、蔡州はモンゴル軍に占領されており、呼敦も戦死した。哀宗の遺骨は、モンゴルの将軍タガチャルと、南宋の将軍孟珙とに分けられた。
同じ年に亡くなった人物
- ロベール3世 (ドルー伯) (1234年没)
- フロリス4世 (ホラント伯) (1234年没)
- 仲恭天皇 (1234年没)
- 後堀河天皇 (1234年没)
- ティルベリのゲルウァシウス (1234年)
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