HISTORICAL PERSON · 1931年没

テオ・ファン・ドゥースブルフ

オランダの画家・建築家。ピエト・モンドリアンらとデ・ステイルを結成して雑誌を刊行し、新造形主義や抽象絵画の普及に努めた。バウハウスとも交流した。

生涯
1931年没
死亡地
スイス連邦(グラウビュンデン州 / ダボス)
出生地
オランダ(ユトレヒト)
出典
世界地図
スイス連邦(グラウビュンデン州)

伝記

テオ・ファン・ドゥースブルフは、1883年8月30日にオランダのユトレヒトで生まれた画家、建築家、美術家である。本名はクリスティアーン・エミール・マリー・キュッパーで、写真家の父ヴィルヘルム・キュッパーと母ヘンリエッタ・カタリナの子であった。短期間の演技と歌の訓練を受けたのち、店員になろうとしたという。継父テオドルス・ドゥースブルフを生涯実の父と考えており、初期の作品には「テオ・ドゥースブルフ」と署名し、のちに「ファン」を加えた。I・K・ボンセットやアルド・カミーニなどの筆名も用いている。結婚は三度で、1910年に神智学者で詩人のアグニタ・フェイス、1917年に会計係のレナ・ミリウス、1928年に芸術家のネリーと結婚した。

最初の展覧会は1908年で、1912年からは雑誌への寄稿で作品の制作を支えた。当初は自らを近代的な画家と考え、作風はアムステルダムの印象派やゴッホに近かったが、1913年にカンディンスキーの回想録を読んで、絵画には生活ではなく精神に由来するより高い次元があり、抽象はその論理的な帰結だと悟ったという。1912年ごろから未来派を批判する文章を書き、動きの模倣的な表現は絵画の性格と正反対だと論じた。1915年には、2年間の兵役の途中でピエト・モンドリアンの展覧会の批評を書き、その抽象に刺激を受けて彼に連絡を取った。

1917年、ライデンでモンドリアンやバート・ファン・デル・レックらとともにデ・ステイルを結成し、同名の雑誌を刊行して、1928年まで続けた。多くの会員がいたなかで、彼はこの運動の「大使」のような存在で、新造形主義・抽象絵画の思想をヨーロッパ各地に広めた。1922年にはワイマールに移り、バウハウスの校長グロピウスに好印象を与えようとしたが、グロピウスは彼を教師にすべきではないと考えた。そこで彼はバウハウスの建物の近くに住み、構成主義やダダ、デ・ステイルに関心を持つ学生を引きつけ、自身の思想をバウハウスに浸透させることに成功した。1923年にはコーネリアス・ファン・エーステレンと共同でデ・ステイル建築計画案を発表した。1920年代を通じて、構成主義者のエル・リシツキーやダダイストのトリスタン・ツァラ、ハンス・アルプらと幅広く交流し、その橋渡しもした。ポーランドの前衛とも交流があった。

1923年にはのちに妻となるネリー・ファン・モールセルとパリに移った。モンドリアンとの友情は手紙を主な手段として続いたが、性格は内向的なモンドリアンと派手で陽気な彼とでは違いが目立ち、1924年に一時決裂した。原因は、画面の線の向きをめぐる考えの違いとされ、モンドリアンが拒んだ対角線の動的な性格を、彼は重んじた。この説は批判もされている。彼は対角線を特徴とする要素主義を導入して、モンドリアンの新造形主義と対立し、モンドリアンはデ・ステイルを離脱した。1929年、二人はパリの喫茶店で偶然出会って和解した。建築にも打ち込み、ゾフィー・トイベル=アルプやハンス・アルプとともにストラスブールの娯楽施設の装飾を設計している。1931年、オーギュスト・エルバンやジョルジュ・ファントンゲルローらとともに、パリで「抽象=創造」の創立に協力した。この団体にはモンドリアンも参加したが、彼は同年3月7日に急逝した。

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