HISTORICAL PERSON · 1931年没

アーノルド・ベネット

英国の小説家・劇作家・評論家。『二人の女の物語』やクレイハンガー三部作など「5つの町」シリーズと、フランス的な自然主義的作風で20世紀初頭に名声を得た。

生涯
1931年没
死亡地
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェストミンスター)
出生地
イギリス連邦(ハンリー)
出典
世界地図
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェストミンスター)

伝記

イーノック・アーノルド・ベネットは、1867年に英国中部スタッフォードシャーのハンリーで、メソジストの中流家庭に生まれた小説家、劇作家、評論家である。ハンリーは窯業の盛んなポッタリーズ地区の都市で、20世紀初頭に周辺の都市と合併してストーク=オン=トレントとなった。父イーノックは陶工だったが、1876年に事務弁護士の資格をとり、一家は大きな家へ引っ越した。ベネットは近隣のニューカッスル・アンダー・ライムで教育を受け、18歳で父の弁護士事務所に入って家賃の徴収などに従事した。わずかな給料で父の下で働くことは不幸で、のちの作品には親の欲深さという主題がたびたび現れる。21歳で事務所を辞め、憧れのロンドンに出て、事務弁護士事務所の書記の職を得た。

勤めの傍ら著述を続け、雑誌に投稿するようになり、1889年に雑誌「ティット・ビッツ」の文芸コンクールで当選した。これが励みとなってジャーナリズムに傾注し、1894年には雑誌「ウーマン」の副編集長となった。雑誌の記事の質に不満を持った彼は、自ら連載小説を書いて75ポンドを得た。この連載から生まれたのが長編冒険小説『グランド・バビロン・ホテル』で、大当たりをとった。一方で本格的な小説にも取り組み、高級誌「イエロー・ブック」に短篇「故郷への手紙」を発表し、4年後、「ウーマン」誌の編集長に昇格したころ、最初の長編を出して批評家の賞賛を受けた。1900年からは雑誌の編集や評論をやめて執筆に専念した。1902年に父が亡くなり、同じ年、ポッタリーズ地区の人々の生活を描く連作の最初の作品が発表された。

父の死の翌年にパリに移り、以後8年間をパリやフォンテーヌブローで暮らして小説と戯曲を書いた。この間に、マルセル・シュウォッブやモーリス・ラヴェル、パリ在住のサマセット・モームらと面識を得た。1907年にフランス人のマリー・マルゲリート・スーリエと結婚したが、あまり成功したものとは言えなかった。1908年にはかねて構想していた『二人の女の物語』を発表して、即座に英語圏で成功を収めた。1911年に訪れたアメリカでは、ディケンズ以来アメリカを訪れた小説家として最大の賞賛を受けた。英国に戻ると、ゴールズワージーやH・G・ウェルズと並ぶエドワード朝時代を代表する小説家という評判をとっていた。

クレイハンガー三部作に取りかかったが、第一次世界大戦で度々中断した。戦争中は情報省の対フランス・プロパガンダ部門の責任者として招かれ、新聞王ビーヴァブルック卿の推挙によるものだった。1918年のナイトの叙爵は辞退した。戦後は活発に執筆し、1923年に小説でジェイムズ・テイト・ブラック記念賞を受賞した。1922年に妻と離婚し、女優ドロシー・チェストンと恋に落ちて、余生を共に歩んだ。1931年5月27日、ロンドンの自宅で腸チフスのため亡くなり、故郷バーズレムの共同墓地に埋葬された。

作品では英国の一般人の生活が現実的かつ克明に描かれ、しばしば自然主義的だと評される。ベネットは、市井の平凡な人々の生活も面白い小説の主題になると信じており、モーパッサンの影響を自ら認めていた。同時代には概ね受け入れられたが、のちにヴァージニア・ウルフは、心理が描けず外面の描写にとどまると批判した。20世紀の大半は軽んじられたが、マーガレット・ドラブルの評伝などによって、1990年代に肯定的な評価が広まったとされる。

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