伝記
マヌエル・コムネノス・ドゥーカスは、1187年ごろに生まれた。父はセバストクラトールのヨハネス・ドゥーカスで、テッサロニキ帝国の「皇帝」を名のったテオドロス1世コムネノス・ドゥーカスの弟にあたる。父系ではアンゲロス家の出だが、その名は実際には使っていない。最初の妻はセルビアの君主ステファン・ネマニャの姉妹だったが、長くは生きなかったらしい。1225年には、ブルガリア皇帝イヴァン・アセン2世の庶出の娘マリア・ベロスラヴァと再婚した。1225年か1227年ごろ、兄テオドロスはコンスタンティノープル奪回と皇帝の称号を主張するために、マヌエルに専制公の位を与えた。
しかしテオドロスの野心は、マヌエルの義父にあたるイヴァン・アセン2世の望みとぶつかった。イヴァン・アセンもまた、バルカンの正教徒を1つにまとめ、コンスタンティノープルを都とする大ブルガリアを夢見ていたのである。テオドロスはイヴァン・アセンとの同盟を破り、1230年にクロコトニツァで両軍が戦った。結果はブルガリアの決定的な勝利で、テオドロスは捕虜になった。自由の身だったマヌエルは、イヴァン・アセンの許しを得て、兄に代わってテッサロニキを治めた。ブルガリア側からは専制公と認められたが、兄が名のった皇帝の称号は保とうとした。しかしこの「帝国」は、テオドロスが築いたものの影にすぎなかった。ブルガリアがトラキアとマケドニア、アルバニアの一部を奪っていたからである。マヌエルは、ブルガリアに対して独立を保つため、テッサロニキ教会の独立を守ろうとした。1232年に教皇と連絡を取ったが、イヴァン・アセンがローマと決別すると、それ以上進むのは慎重にやめた。そこでニカイアの教会に目を向けたが、クロコトニツァの敗戦後にエピロスの主教たちが次第にニカイアに近づき、教会の分離は1233年に終わったため、マヌエルの独立の主張は弱まった。
マヌエルとイヴァン・アセンの関係は急速に悪化した。イヴァン・アセンは妻を亡くしたのち、獄中にいたテオドロスの娘イレーネと結婚することにしたからである。テオドロスとその息子たちは釈放され、1237年にテオドロスはテッサロニキの支配を取り戻そうとした。しかしテオドロスはイヴァン・アセンに目を潰されていて統治できず、息子のヨハネスに冠を与え、自らは後見人となった。マヌエルはこの都市から追放された。アカイア公の助けを得ようとして、その宗主権を認めることまで約束したが、うまくいかず、小アジアのアタリア(現アンタルヤ)へ逃げた。
マヌエルはセルジューク朝のトルコ人のもとやニカイアで亡命生活を送ったあと、1239年にニカイアの支持を得てギリシアに戻った。テッサリアにあるテオドロスの息子ヨハネスの要塞をいくつも奪い、テオドロスとヨハネスは領地を分けるしかなかった。これによって、かつてのテッサロニキ帝国は、テッサロニキのヨハネス、テッサリアのマヌエル、エピロスのミカエル2世の3つに分かれた。マヌエルは1241年ごろに亡くなり、領地は甥のエピロスのミカエル2世のものとなった。マヌエルにはヘレナという娘がいて、エヴィア島の領主ヴェローナのギレルモと結婚したとされるが、確かなことは分かっていない。
同じ年に亡くなった人物
- エレノア・オブ・ブリタニー (1241年没)
- オゴデイ (1241年没)
- ヘンリク2世 (1241年没)
- コチャン (ポロヴェツ族) (1241年)
- バランゲー・ダ・パロウ2世 (1241年没)
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