伝記
インドラヴァルマン2世は、クメール王朝(アンコール朝)の第二十二代君主である。第二十一代のジャヤーヴァルマン7世の子で、母は王妃のジャヤラージャデーヴィー(インドラデーヴィーとも)とされる。生年は不詳で、王子のころはラヴォ(今のロッブリー県)の総督だったともいわれる。
在位は一二二〇年ごろから一二四三年までとされるが、一二一八年に即位したとする説もあり、治世の長さには議論がある。父王が亡くなったので即位した。後継者のジャヤーヴァルマン8世が、彼にまつわる記録の多くを壊したらしく、彼の名を直接挙げる碑文は、一二四三年の死を伝えるものただ一つしかない。ただ、この年代も確実とはいえず、最近になってその年代を変えるかもしれないサンスクリット語の碑文が新たに見つかったとされる。
彼は父と同じく熱心な仏教徒で、父王が建てた仏教寺院のいくつかを拡張し、あるいは完成させた。父の政策を引き継ぎ、広大な帝国の各地の結びつきを保とうと努めたとされる。一二二〇年ごろには、チャンパから自ら撤退し、チャム人の王子ジャヤ・パラメーシュヴァラヴァルマン2世をチャンパの王の座につけたともいわれる。父の時代に浪費されて悪化した財政の影響で、チャンパのアンシャラージャに独立を許し、さらに一二三八年にはスコータイ王朝のバーンクラーンハーオ(シーインタラーティット)にも独立を許したと言われ、クメールの領土は縮み、勢力は大きく衰えたと考えられてきた。チャオプラヤー川流域の上流にあった町々が、のちにスコータイ王国を建てる支配者の下に入っていったことが、その様子だとされる。もっとも、アンコールの権力がこの西の町々にどこまで及んでいたかについては議論がある。
一方、二〇〇〇年代の発掘調査などから、インドラヴァルマン2世の治下でもクメールはそれなりに繁栄していたとも、彼自身も実力と行動力を持っていたとも考えられている。スコータイをシーインタラーティットが奪った年を一二三八年や一二二〇年ではなく一二四三年ごろとする見方もあり、その場合、パー・ムアンが誓いを立てた相手は父王ではなくインドラヴァルマン2世になる。また、デイヴィッド・チャンドラーは、クメールの伝説に出てくる「らい王」が、インドラヴァルマン2世ではないかと推測した。
同じ年に亡くなった人物
- ヘルマン5世 (1243年)
- シロンスクのヤドヴィガ (1243年没)
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