HISTORICAL PERSON · 1932年没

ポール・ドゥメール

フランスの政治家。苦学して数学教授となった後、政界に進み、第14代共和国大統領を務めた。

生涯
1932年没
死亡地
フランス共和国(パリ)
出生地
フランス共和国(オーリヤック)
出典
世界地図
フランス共和国(パリ)

伝記

ジョゼフ・アタナーズ・ガストン・ポール・ドゥメールは、1857年3月22日にフランス中南部カンタル県のオーリヤックで生まれた政治家で、第14代共和国大統領を務めた。家は貧しく、父は鉄道労働者でパリへ移ったと伝えられるが、出自と幼年期には不明な点が多く、近年の研究では異なる父親像も示されている。早くから見習工などとして働きながら苦学し、フランス国立工芸院で学んで1876年に卒業した。1877年にマンドで数学の教授となり、翌年、大学で知り合ったブランシュ・リシェルと結婚して8人の子をもうけたが、そのうち4人とも5人ともいわれる子が第一次世界大戦で戦死した。1883年には健康上の理由で教職を離れ、サン=カンタンの地方新聞『ル・クーリエ・ドゥエーヌ』の編集長になった。1879年にフリーメイソンのロッジに入っている。

1888年に政界へ入り、1895年から翌年まで財務大臣を務めて所得税の導入を進めたが、成功しなかった。1897年から1902年にはインドシナ総督を務め、強引な同化政策と本国本位の植民地政策を行った。土地税や人頭税の増税、間接税の徴収、塩・アヘン・酒の専売による利益で、植民地財政を赤字から黒字に変えたという。一方、本国の資本に鉄道や運河、港湾などの大規模な公共事業を受注させ、原住民の土地を没収してフランス人入植者や協力者の地主・官僚に与えたため、農民は小作人や農業労働者に転落して困窮した。その統治は植民地経済の発展のためで、現地人は考慮されていなかったといわれる。ハノイの紅河にかかる橋は、総督在任中に完成して彼の名で呼ばれた。

帰国後の1905年から1906年には代議院議長を務め、1906年1月の大統領選挙に出たが、アルマン・ファリエールに敗れた。1910年の総選挙では議席を失い、しばらく実業界で活動した。1912年にコルシカ選出の上院議員となって議会に復帰し、大戦が始まると上院軍事委員会の副会長として、政府と軍部に対する議会の統制権の確保に奔走した。1917年9月には無任所大臣としてパンルヴェ内閣に入り、戦時経済委員会を組織した。1921年に25年ぶりに財務大臣となり、均衡予算の維持やフランの下落に対処する一方、ドイツへの賠償責任の追及には強硬な立場をとった。1925年12月にも再び財務相となり、1927年から1931年には上院議長を務めた。

1931年5月13日、ブリアンを破って大統領に就任した。対独宥和を探るブリアンを牽制しようとする右派が支持した結果であった。高齢で技術官僚の印象が強く、大衆的な人気は高くなかったが、勤勉さと愛国心が知られ、次第に好意を得た。派閥競争による政治危機を嘆き、アンドレ・タルデューを首班とする中道右派内閣の構成に影響力を行使するなど、儀礼職にすぎなかった大統領の権限を活用しようとした。1932年5月6日、パリで開かれた従軍作家協会のブックフェアで、ロシア移民のゴルゴロフに銃で3発撃たれ、翌7日に死去した。銃創で亡くなった唯一の共和国大統領である。5月12日に国葬が営まれ、ヴォージラール墓地に葬られた。ゴルゴロフは白衛軍の出身で、ロシア内戦での敗北はフランスの協力不足のためだと思い込んでいたとされ、同年9月14日に断頭台で処刑された。

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