伝記
エルメジンデは、ルクセンブルク女伯をつとめた人物である。1186年に、ルクセンブルク伯ハインリヒ4世と妻アグネス・フォン・ゲルデルンの間の唯一の子として生まれた。祖母にも同じ名の人がいたため、エルメジンデ2世とも呼ばれる。生まれる前、すでに老齢であった父は、甥のエノー伯ボードゥアン5世を後継者に定めていた。ところが72歳とも76歳ともいわれる年に娘が生まれると、父は娘を後継者にあらためた。娘に庇護者を得させるためもあって、2歳のときシャンパーニュ伯アンリと婚約させたといわれ、エルメジンデは幼い日をフランスのシャンパーニュの宮廷で過ごした。
1196年か1197年に父が没すると継承戦争が起こり、最終的に遺領は分けられた。ボードゥアンはナミュール伯領を、エルメジンデはデュルビュイ伯領とラ・ロッシュ伯領を継ぎ、ルクセンブルク伯領は神聖ローマ帝国の皇帝に戻された。皇帝ハインリヒ6世は、この伯領を弟のオットーに与えた。のちにアンリは婚約を取り消し、エルメジンデはバル伯ティボー1世と結婚した。ティボーはオットーと交渉して、ルクセンブルク伯領への権利を捨てさせ、夫妻はルクセンブルクを継ぐことができた。ティボーはナミュールの奪回も試みたが成功せず、ディナンの条約でそれを断念した。
1214年にティボーが亡くなり、エルメジンデはのちのリンブルフ公ヴァルラム3世と再婚して、ヴァルラムがルクセンブルク伯となった。持参金としてアルロン侯領も受け、ルクセンブルクはデュルビュイやラ・ロッシュ・アン・アルデンヌまで西へ広がる一つのまとまった領土になった。ワロン語圏とドイツ語圏の二つの地区が一体となり、この二重の文化が以後この国の性格になった。1216年には、クレールフォンテーヌに修道院を建てようと志した。1223年、夫妻はナミュールの相続権をナミュール侯フィリップ2世に主張したが、これも成功しなかった。
1226年にヴァルラムが亡くなったのち、エルメジンデは約20年間、単独でルクセンブルクを統治した。家臣の助言によく耳を傾け、領地の多くを、世襲ではなく簡単に退けられる代官に任せて、領内に初めての地域ごとの組織の形を生んだ。1236年にエヒタナハ、1244年にルクセンブルクの町に自由都市の特許状を与え、領内を繁栄させた。賢明で穏やかな政治が、伯領を整った国に変えたと評される。1247年2月12日に没し、遺言によって、クレールフォンテーヌの修道院に財を残した。実際にこの修道院を建てたのは、息子のハインリヒ5世である。
伝説では、女伯がアイシャンの城のまわりを歩いていると、丘から赤子を抱いた女性が下りてきた。赤子は黒い十字のついた羊皮にくるまれていた。女伯はこの女性を聖母マリアと確信し、ここに修道院を建て、自分もここに葬られるよう望んだという。この修道院は18世紀にフランス軍に壊されたが、壊される直前に、修道女たちが遺体をここに隠したのだという。1875年から1877年にかけて、イエズス会が一部を修復した際、修道士マルティン・ポールが人骨と墓石を見つけた。かたわらの額には、ここにルクセンブルクおよびナミュール女伯エルメジンデが眠ると記されていた。現在、エルメジンデはこの修道院の地下室に葬られている。
同じ年に亡くなった人物
- 巴御前 (1247年)
- アガフィヤ・スヴャトスラヴナ (1247年)
- アルマン・ド・ペリゴール (1247年)
- コンラト1世 (マゾフシェ公) (1247年没)
- Richard de Bures (1247年)
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