伝記
ユーグ1世は、13世紀前半のフランスの貴族である。サン=ポル伯としてはユーグ5世にあたり、「善良で勇敢な騎士」とも呼ばれた。1198年ごろ、ゴーシェ3世・ド・シャティヨンと、サン=ポル伯ユーグ4世の娘エリーザベトの次男として生まれた。1216年にバル伯ティボー1世の娘アニェスと結婚し、1223年には父ゴーシェの後を継いで、終身の権利としてシャンパーニュの献酌官の職に就き、クレシー=アン=ブリとその付属地を受けた。
アニェスは1225年までに世を去り、ユーグはブロワ女伯マリーと再婚した。結婚は1225年とも1226年ともいわれる。マリーはゴーティエ2世・ダヴェーヌとブロワ女伯マルグリットの娘で、この結婚によってユーグは妻の権利でブロワ伯となり、シャティヨン家で最初のブロワ伯になった。これは400年以上続いたブロワ家の支配が終わることを意味した。サン=ポル伯の位は母エリーザベトから受け継いだもので、1226年からこの位を名乗り、同じ1226年にはシトー会の女子修道院ポン=オー=ダムをクーイィに創建している。1227年ごろには、母の存命中にサン=ポルの統治を握ったという。この間、主君であるシャンパーニュ伯ティボーとは不和と和解を繰り返した。1227年にはふたたび仲がこじれたが、深刻なものではなく、両者は一緒にユーグの姪ヨランドの縁組を取りまとめている。シャンパーニュ伯に対する諸侯の反乱が起きたときには、ユーグは若い国王ルイ9世に仕え、ピエール・ド・ドルー、通称モークレールへの進軍に随行した。その後、ティボーとは完全に和解したようである。
1232年には、フィリップ・メクランジュの助けを得て、トロワシーにシトー会のアムール=デュー女子修道院を創建した。1235年には、フランスの諸侯41人がローマ教皇に対し、高位聖職者が王権や諸侯の特権を侵していると訴え出たが、ユーグもその1人であった。また、サン=ソヴール参事会教会を一部取り壊してその跡に城を築いたため、教皇はサン=トメールの代官に書簡を送り、伯から補償として教会の建設用地と、サン=ポルの家々を出させるよう求めた。1241年にマリーが亡くなると、ユーグはギーヌ伯家のマオーと三度目の結婚をした。マリーとの間には、ブロワ伯となるジャン、1241年からサン=ポル伯となるギー、ゴーシェ、ユーグ、のちに女子修道院長となるバジールの5人の子がいた。
ユーグは、国王ルイ9世が率いる第7回十字軍に加わるつもりで、部隊を整え、インヴァネスで船まで造らせていた。しかし、出発する十字軍がアヴィニョンを通ったときに石で打たれ、1248年4月9日にその地で亡くなった。遺体はクーイィのポン=オー=ダム修道院の内陣に、2番目の妻マリーと並んで葬られた。そこには、鎖かたびらを着て横たわり、左手を盾にかけた伯の像を載せた、見事な大理石の墓碑があるという。
同じ年に亡くなった人物
- イブン・バイタール (1248年没)
- アンリ2世 (ブラバント公) (1248年没)
- シャムセ・タブリーズィー (1248年)
- アル=アーディル2世 (1248年没)
- ヨランド・ド・ドルー (ブルゴーニュ公妃) (1248年没)
同じ地域に関係する人物
- ジラール・ド・ルシヨン (870年代没)
- Felix Gras (1901年没)
- ウィム・ドイセンベルク (2005年没)
- マックス・ガロ (2017年没)
- フランス・マシリール (1972年没)