伝記
シュテファン・アントン・ゲオルゲは、1868年7月12日、ヘッセン大公国のビューデスハイム(現在のビンゲン・アム・ラインの一部)に生まれたドイツの詩人で、ドイツ詩における象徴主義を代表する人物である。父は旅館業を営んだのちに葡萄酒の仲買人となり、母エーファは主婦だった。経済的には恵まれた環境で、5歳のときに一家はビンゲンへ移った。この土地ではカトリック教会が暮らしの中心にあり、一家の日々も教会暦の祝日を軸に回っていたという。ビンゲンの小学校を出た後、13歳でヘッセン大公国の首都ダルムシュタットの名門ギムナジウムに送られ、1882年から1888年まで、ギリシア語、ラテン語、フランス語を重んじる人文主義の教育を受けた。フランス語に秀で、ヨーロッパ近代文学とギリシア・ローマの作家に通じた。孤独な人だったと後に評されるが、ダルムシュタットで最初の友人の輪をつくり、図書館や劇場にも親しみ、イプセンを原語で読むためにノルウェー語を独習した。
19歳のとき、数人の同級生と文芸誌を創刊し、エドムント・ドロルムという筆名で最初の詩を発表した。ギムナジウムはドイツ・ロマン派の詩を重んじたが、彼は崇敬するルネサンスの詩人たちを読み翻訳するためにイタリア語を独習し、初期の詩はペトラルカやタッソの翻訳や模倣だった。1888年に学業を終えると、大学や実業、官吏の道には進めないことが本人にも家族にも明らかで、旅に出た。1888年の5月から10月までロンドンに滞在し、ロセッティ、スウィンバーン、ダウスンらの英詩に触れたと考えられている。スイスや北イタリアを巡る途中、モントルーでモリエールの劇に出演したこともある。1889年5月に強い孤独感を抱えてパリに着き、到着した日に詩人アルベール・サン=ポールと出会い、パリの文学界に迎え入れられた。その縁でヴェルレーヌらを知り、サン=ポールの紹介でマラルメの火曜会にも招かれた。マラルメとの出会いは象徴主義的な詩風を確立する上で大きな影響を与えたとされる。
その後ベルリン大学で学び、1902年に文芸誌『芸術草紙』を創刊して、芸術至上主義に共感するホーフマンスタールらが集まり、ゲオルゲ派とも呼ばれた。同じ1902年に14歳のマクシミリアン・クローンベルガーと知り合ったが、この青年は1904年に髄膜炎で急死し、「マクシミーン」の名で神格化されて、1907年の『7つ目の輪』などの詩に登場する。主な詩集には『魂の四季』(1897年)、『生の絨毯』(1900年)がある。彼は生涯定住せずヨーロッパ各地を放浪し、ウィーンではシュニッツラーやホーフマンスタールら文芸サークルの人々が集うカフェにも顔を出した。ダンテやシェイクスピア、ボードレールの翻訳でも知られる。
1921年には「救いの手をのばす唯一の者を生み出す」時代を予言したが、のちのヒトラーとナチス・ドイツの出現を予言するかのような内容とも読まれる。1933年に政権を握ったナチスは、選民的ともみえる彼の思想を利用しようとしたが、ゲオルゲはそれを避けるようにドイツを去り、同年12月4日、スイスのロカルノで病没した。ロカルノ近郊のミヌージオに埋葬された。弟子の一人に、のちにヒトラー暗殺計画の中心となったクラウス・フォン・シュタウフェンベルク伯爵がいる。彼の詩にはシェーンベルク、ベルク、ヴェーベルンらが曲をつけている。
同じ年に亡くなった人物
- アナガーリカ・ダルマパーラ (1933年没)
- フランク・ジャービス (1933年没)
- テオドール・レッシング (1933年没)
- ジョージ・ラクス (1933年没)
- エミール・マグヌッソン (1933年没)
同じ地域に関係する人物
- Ester Boserup (1999年没)
- S・マダリアーガ (1978年没)
- ゲオルグ・カイザー (1945年没)
- カルロ・カッターネオ (1869年没)
- エーリヒ・フロム (1980年没)