伝記
ジョン・ゴールズワージーは、1867年8月14日、イングランドのサリー州キングストン・アポン・テムズ近郊にある一家の邸宅パークフィールドに生まれた。父ジョンはロンドンで弁護士として栄えた人物で、祖父から受け継いだ多額の財産もあった。祖父はデヴォン州の農家の出で、プリマスで船具商として成功したのち、ロンドンで不動産に投資して富を築いたという。母ブランシュ(旧姓バートリート)は自分の家柄のほうが夫の家より上だと考えており、20歳の年齢差もあって、夫婦仲はしっくりいかなかった。4人の子どもは母よりも父に親しみ、のちに作家は1919年に、父をあまりに深く愛したので母に注ぐ愛情が残っていなかったかのようだったと振り返っている。この父が、のちの小説に登場する一族の家長オールド・ジョリオンのモデルになった。
9歳まで家庭教師に教わり、1876年にボーンマスの予備校に入った。弟ヒューバートも加わって楽しく過ごし、1881年の夏学期からハーロー校に進んだ。サッカーの選手で、寮のチームの主将を務め、同時代人からは優れたサッカー選手であり走者、美しいドリブラーだったと評された。ハーロー校のあとはオックスフォード大学ニュー・カレッジで法律を学び、1889年に二等の成績で卒業した。大学では演劇協会に入り、素人芝居で共演した女優志望のシビル・カーライルに恋をしたが、思いは報われなかった。
父の望みどおり法曹の道に入り、1890年に法廷弁護士の資格を得たが、弁護士の仕事に熱が入らなかった。家業の船舶業を手伝いながら世界を旅し、この時期にオーストラリアのアデレードでジョゼフ・コンラッドと出会ったとされる。父のすすめで弟とともにカナダを旅した。表向きは家族の所有地の視察だったが、見聞を広めるための大陸巡遊のような旅であったという。1891年9月に帰国したあと、短く不幸な恋愛を経験し、父は気を紛らわせるため、海事法を学ばせる目的もあって、さらに外国旅行を手配した。
作家として最初の本が出たのは30歳になった1897年で、本格的な成功は1906年の『資産家』まで待たなければならなかった。同じ年に最初の戯曲『銀の箱』がロンドンで上演された。劇作家としては、労働者の搾取への闘い、監獄での独房監禁、女性の抑圧、好戦的愛国主義や戦争の政治と道徳といった、社会的な主題をもつ作品で知られた。フォーサイト一族を描く連作は19世紀末から1930年代初めまで3世代にわたる物語で、『裁判沙汰』(1920年)、『貸家』(1921年)を含み、1922年に『フォーサイト・サガ』としてまとめられた。この連作は作者自身の家族と多くの点で似ているとされ、1967年の生誕100年には英国放送協会が26回のテレビドラマとして放送して人気が高まった。そのほか『現代喜劇』などの連作があり、日本では『林檎の樹』で親しまれている。
1921年に国際ペンクラブが発足すると、1923年から1933年まで初代会長を務めた。動物の福祉や監獄改革、検閲、労働者の権利など、多くの問題に関して運動し、急進的とみられたが、いずれの政党にも属さなかった。1932年にラドヤード・キップリングに次ぐイギリス人2人目のノーベル文学賞を受け、1933年1月31日に死去した。
同じ年に亡くなった人物
- ニコライ・ユデーニチ (1933年没)
- アドルフ・ヒレミ=ヒルシュル (1933年没)
- フランセスク・マシア (1933年没)
- ルドルフ・ルイス (1933年没)
- フレデリック・セシジャー (初代チェルムスフォード子爵) (1933年没)
同じ地域に関係する人物
- テレンス・ベイラー (2016年没)
- ユーニス・ゲイソン (2018年没)
- エドワード・ベルチャー (1877年没)
- ロバート・サウスウェル (1595年没)
- フランク・ディックシー (1928年没)