HISTORICAL PERSON · 1933年没

クララ・ツェトキン

ドイツの政治家・フェミニスト。社会民主党の左派として活動し、男女平等や婦人参政権を掲げて社会主義の立場から女性解放運動を主導した。女性解放運動の母と呼ばれる。

生涯
1933年没
死亡地
ロシア連邦(モスクワ / Arkhangelskoye)
出生地
ドイツ連邦共和国(ヴィーデラウ)
出典
世界地図
ロシア連邦(モスクワ)

伝記

クララ・ツェトキンは、1857年7月5日、ザクセンのドレスデン近郊の農村に、クララ・ヨゼフィーネ・アイスナーとして生まれた。三人きょうだいの長女である。父ゴットフリートは学校の教師で教会のオルガニストを務める敬虔なプロテスタントで、母ヨゼフィーネはフランスにルーツを持つライプツィヒの中流家庭の出身で、教養が高かった。1872年に一家はライプツィヒに移り、彼女は女子教員養成学校で教育を受けた。そこで、まだ生まれたばかりのドイツ社会民主党につながる人々と接触を持った。教師になるための勉強のかたわら、1874年ごろから女性解放運動や労働運動に関心を向け、1878年にドイツ社会主義労働者党に加入した。この党は1875年に二つの政党が合併して生まれ、1890年にドイツ社会民主党と名を改めた。

同じ1878年にビスマルクが社会主義活動を禁じたため、1882年にチューリッヒへ、次いでパリへ亡命し、ジャーナリストと翻訳者になるための勉強をした。パリでは第二インターナショナルの創設に重要な役割を果たした。この時期に、ロシア系ユダヤ人で熱心なマルクス主義者のオシップ・ツェトキンと生活をともにし、その名を名乗って、二人の息子マクシムとコンスタンティンをもうけた。しかしオシップは1889年初めに重い病にかかり、その年の6月に亡くなった。彼女は子どもたちとシュトゥットガルトに移り、1899年から1928年まで、18歳年下の画家ゲオルク・フリードリヒ・ツンデルと結婚していた。

社会民主党では左派として活動し、エドゥアルト・ベルンシュタインの修正主義に反対する一方、男女平等や婦人参政権などの女性解放運動にも本格的に取り組んだ。1898年ごろからはローザ・ルクセンブルクと約20年にわたる友情を結び、党の最左派で盟友となった。1891年から1917年まで党の女性向け機関誌『平等』を編集し、1907年には新設された党の婦人部長となった。ブルジョワ・フェミニズムには反対し、労働者階級の女性の解放は社会全体の変革のなかでしか実現しないと考えた。1910年にコペンハーゲンで開かれた国際社会主義婦人会議では、毎年「特別な女性の日」を設けることが提案された。このとき3月8日を国際女性デーとするよう提唱したともいわれるが、日付はこの会議では定まらなかったともされる。翌1911年3月19日には、オーストリア、デンマーク、ドイツ、スイスで100万人以上が参加して最初の国際女性デーが行われた。

第一次世界大戦が始まると、社民党首脳の戦争協力に反対し、ルクセンブルクやカール・リープクネヒトとともに1916年にスパルタクス団を結成した。独立社会民主党を経て、ドイツ革命後の1920年にドイツ共産党の結成に参加し、1920年から1933年まで同党の議員として帝国議会で活動し、中央委員やコミンテルンの代表委員を歴任した。1933年にヒトラーのナチスが政権を握り、国会議事堂放火事件で共産党が非合法化されると、70代半ばの高齢をおしてソビエト連邦に亡命した。同年6月20日にモスクワ近郊で亡くなり、遺骨はクレムリンの壁墓所に葬られた。弔問にはレーニンの妻クルプスカヤらが訪れ、棺はスターリンらとともに片山潜も担いだと伝えられる。東ドイツでは英雄視され、肖像は10マルク紙幣にも採用された。

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