伝記
アナトリー・ワシリエヴィチ・ルナチャルスキーは、1875年11月23日(ユリウス暦11月11日)、ロシア帝国領ウクライナ北東部のポルタヴァに生まれた革命家で、ソ連の政治家である。ソ連の初代教育人民委員を務め、芸術評論を中心に文筆家としても活躍した。生家は貴族で、父は四等官の官吏だった。父の死後は、帝政に反対する継父のもとで育てられたとされる。15歳でマルクス主義者となり、17歳で鉄道労働者に社会主義思想を宣伝していた。早くから哲学に親しみ、マルクスやニーチェといった難解な思想家も読みこなしたという。
その後チューリヒ大学に留学し、美学や哲学の研究に傾倒してリヒャルト・アヴェナリウスの影響を受けた。ゲオルギー・プレハーノフとパーヴェル・アクセリロードの指導下でフォイエルバッハを研究し、ローザ・ルクセンブルクらとも面識を得た。留学中の1895年にロシア社会民主労働党に入党した。1898年にロシアへ帰国し、モスクワ大学に聴講生として通ったが、党のモスクワ委員会を再結成する活動に加わったため逮捕・投獄され、のちにカルーガへ流刑となった。そこで同じく流刑中のアレクサンドル・ボグダーノフと知り合い、無二の親友となった。1903年秋に党がボリシェヴィキとメンシェヴィキに分裂すると、ヴォログダに流され、1904年(1903年説もある)に亡命し、ボグダーノフの勧めもあってボリシェヴィキに属した。亡命中は「フペリョート」紙や「プロレタリー」紙の編集部で働いた。
1905年に帰国して逮捕され、1906年に再び亡命した。第一次ロシア革命以後は社会主義的な世俗宗教の創設を目指し、「建神論」を唱えたが、レーニンに酷評され、1908年頃から対立するようになった。1909年にレーニンとボグダーノフが対立すると、ボグダーノフを支持して「フペリョート」派を構成した。同年、イタリアのカプリ島でゴーリキーらとともに党学校を運営し、翌年にはボローニャの党学校に移って講義を続けた。1913年にはパリで「プロレタリア文化同盟」を結成した。1914年に第一次世界大戦が起こると反戦の国際主義を表明し、1917年の二月革命後の5月にドイツ経由で帰国し、7月にボリシェヴィキに復党して、ペトログラードの副市長となった。
1917年10月にレーニンを首班とするソビエト政権が樹立されると、初代教育人民委員となり、1929年まで在職した。教育のほか、検閲も担当した。識字率の改善を目指して学校体系の整備に努め、1927年にはアメリカの司書ハリエット・エディーをモスクワに招いて、1930年に彼女が帰国するまで文教政策について諮問した。ソビエト政権が破壊を企てた多くの歴史的・宗教的な建造物の保存や、芸術品・文化財の保護、海外流出の阻止にも力を尽くした。一方、国内戦の時期にはメンシェヴィキや社会革命党との連立を主張してレーニンに批判され、党を除名される寸前にまでなったという。1925年にはロシア作家同盟の機関誌「ノーヴィ・ミール」の初代編集長となった。
1927年から外交活動を始めたが、権力からは遠ざかり、スターリンによって人民委員を解任された。1930年にはソ連の国際連盟代表部に赴任し、1933年に駐スペイン全権代表に任命されたが、病のため赴任の途中でフランスのマントンで12月26日に死去した。58歳。遺体はモスクワに戻り、クレムリンの壁に葬られた。生前は低い評価にとどまったが、洗練された教養と寛容さから、1950年代後期から1960年代に再評価を受けた。
同じ年に亡くなった人物
- ジョヴァンニ・ジャコメッティ (1933年没)
- フレデリック・セシジャー (初代チェルムスフォード子爵) (1933年没)
- エアハルト・ハイデン (1933年没)
- ロバート・W・チェンバース (1933年没)
- マティルデ・フォン・ザクセン (1933年没)
同じ地域に関係する人物
- アナスタシア・ニコラエヴナ (1868-1935) (1935年没)
- ドミトリー・ロマノヴィチ・ロマノフ (2016年没)
- Philip Osipovich Paulucci (1849年没)
- ゲオルク・ショルティ (1997年没)
- アルマス・ラウニス (1959年没)