伝記
ラティボル1世は、グライフ家に属するポメラニア公である。ポーランド語ではラシボルという。兄のヴァルティスラフ1世とともに、ポメラニア公として確かな記録がある最初の2人であり、生年は伝わっていない。1110年ごろ、1112年ごろなどともされる。兄ヴァルティスラフが洗礼を受けて、ポメラニアのキリスト教化を進めていた時代の人で、ラティボル自身の洗礼の時期も分からない。
公位に就く前のラティボルは、カミエンに居を構え、そこからデンマーク、スウェーデン、ノルウェーへの遠征を重ねていた。1135年にはリューゲン島へ向かうデンマークの艦隊を破り、その報復として当時のデンマークの首都ロスキレを破壊した。当時のスカンディナヴィアの年代記が、このことを記している。同じ年には、甥のドゥニミスルとともに、ノルウェーの町コヌンガヘラ(現在のスウェーデンのクングエルブ)を略奪した。兄ヴァルティスラフ1世は、異教徒に殺されたともされ、没年は1134年から1148年の間と幅がある。ラティボルは、兄の幼い息子ボギスラフ1世とカジミール1世に代わって、1135年(または1136年)から公領を治めた。公になってからも、シュチェチンを拠点にスカンディナヴィアへの略奪の遠征を続けたが、ポーランドとは良い関係を保った。ラティボルは、スワヴノとスウピスクの地も治めていたとされる。
1147年、ハインリヒ獅子公とザクセンの諸侯によるヴェンド十字軍がポメラニアに及んだ。シュチェチンの前で、ラティボルはポメラニア司教アダルベルトとともに、ザクセン軍の指導者たちの前に出て、シュチェチンもポメラニアもすでにキリスト教を受け入れていると訴え、包囲をやめさせたという。翌1148年には、ハーフェルベルクで、ザクセンの諸侯の前でふたたびキリスト教の信仰を表明し、その拡大と防衛に努めると誓った。治世中には、バルトとグリンメンに教会が建てられ、スウピエとグローベに修道院が創建された。1153年、ラティボルとアダルベルトは、ペーネ川沿いのギュッツコウ近くにシュトルペ修道院を創建した。ここは、兄ヴァルティスラフが殺され、その記念に教会が建てられた場所だった。1155年にはウーゼドム島にグローベのプレモントレ会修道院を創建した。
ラティボルは1156年5月7日に亡くなり、自ら創建したグローベの修道院に葬られた。妻プリブィスラヴァも、まもなく亡くなって同じ修道院に葬られた。妻はヴォルィーニ公ヤロスラフ・スヴャトポルコヴィチの娘とみられるが、ポーランド王ボレスワフ3世の娘かもしれないともいわれる。2人の間には、ラッツェブルク伯ベルンハルト1世と結婚した娘マルガレーテと、息子スヴァントポルクがいた。ほかに、ヴァルティスラフやボギスラフの名も子として古い記録に見えるが、確かではない。ラティボルの死後、公領は兄の息子のボギスラフ1世とカジミール1世が治めた。ラティボル自身の子孫は、ラティボル家と呼ばれ、後ポメラニアの小さな領地を治めた。
同じ年に亡くなった人物
- Guillaume de Sonnac (1250年)
- レオナルド・フィボナッチ (1250年没)
- ロベール1世 (アルトワ伯) (1250年没)
- アルベリック (1250年)
- ヘルマン6世 (バーデン=バーデン辺境伯) (1250年没)
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