伝記
ガイウス・マリウスは、共和政ローマ後期の政務官で、紀元前82年の執政官である。大マリウスの息子で、父と区別して小マリウスとも呼ばれる。ルキウス・コルネリウス・スッラとの内戦に敗れて死んだ。生年は紀元前109年または紀元前108年とされる。
母はユリア・カエサリアで、独裁官ガイウス・ユリウス・カエサルは母方の従兄弟にあたる。のちに、元老院議員ルキウス・リキニウス・クラッススの娘で、スカエウォラ・アウグルの孫にあたるリキニアと結婚した。幼いころに共に学んだ相手にはティトゥス・ポンポニウス・アッティクスとキケロ、ルキウス・マンリウス・トルクァトゥスがいたが、生涯の友となったのはアッティクスだけであった。父の大マリウスはキンブリ・テウトニ戦争での勝利によって民衆の支持を集め、息子はその後継者として育てられた。支持者からは軍神マルスの子と持ち上げられたものの、実際には父に比べて戦いは不得手だった。プルタルコスによれば美男子として知られ、むしろ女神ウェヌスの子、つまり女たらしと呼ばれたという。
紀元前90年にイタリア同盟市が反乱を起こすと、父の軍で副官、のちに前執政官として戦い、マルシ人に二度の勝利を収めた。翌年は執政官カトーの下で戦ったが、フキヌス湖でローマ軍はマルシ人に敗れ、カトーは戦死した。紀元前88年、スッラがミトリダテス戦争の指揮権を奪われたことに反発して軍団を率いローマに侵攻し、内戦が始まった。このとき七十歳ほどの大マリウスは、息子を自分の下で軍務につかせたいと語って指揮権を求めたが、プルタルコスによればその言い分は滑稽に聞こえたという。スッラの占領後、元老院は大マリウスらを国家の敵と宣言し、これに抗議したのはスカエウォラ・アウグルだけであった。小マリウスは、スッラがローマを占領した際に父の命令で祖父スカエウォラのもとへ物資を取りに向かったが、輸送に手間取って追手に捕らえられそうになり、ひとりでアフリカ属州へ亡命した。
アフリカでは、かつて父がユグルタ戦争で戦ったヌミディア王国の王に庇護されたが、扱いはほとんど人質に近く、宮殿から出ることも許されなかった。やがてヒエムプサル2世の妻を口説き落として脱出を助けられ、父と合流してケルキラ島に身を隠した。紀元前87年、父がスッラに反旗を翻した執政官キンナから執政官代理に指名されると、父子はイタリアに上陸してローマを制圧した。父は紀元前86年1月に死去し、その後しばらく小マリウスは表に出なかった。
紀元前82年、スッラ軍が再びローマへ進軍する中、法定年齢の43歳に届かない26歳でありながら、父の威光を頼って執政官に選ばれ、同僚はグナエウス・パピリウス・カルボとなった。サクリポルトゥスでスッラ軍と戦って敗れ、プラエネステに退いて籠城したが、スッラの副官オフェッラに包囲された。籠城の中から、ローマの法務官ダマシップスに元老院議員の殺害を命じたともされるが、この命令は後に作られた伝説だとする見方もある。外と内から包囲を破ろうとする試みはいずれも失敗し、プラエネステが陥落したとき、自害したとも処刑されたともいわれる。小マリウスの首を検分したスッラは、規定の年齢に達せず執政官となったことを、オールの使い方も知らずに船長になってはいかんなと皮肉ったという。のちにカエサルが暗殺されると、小マリウスの遺児を名乗るヘロピルスなる人物が現れて民衆を扇動したが、執政官マルクス・アントニウスに処刑された。
同じ年に亡くなった人物
- ルキウス・ドミティウス・アヘノバルブス (紀元前94年の執政官) (紀元前82年没)
- クィントゥス・ムキウス・スカエウォラ (紀元前95年の執政官) (紀元前82年没)
同じ地域に関係する人物
- グレゴリオ・アレグリ (1652年没)
- ヨハン・ダヴィド・オケルブラッド (1819年没)
- Vincenzo Fagiolo (2000年没)
- ジュリオ・ポレリオ (1612年没)
- アルベルト・キュヒラー (1886年没)