HISTORICAL PERSON · 紀元前81年没

プトレマイオス9世

プトレマイオス朝のファラオで、弟のプトレマイオス10世と王位を争い、三度即位した。母はクレオパトラ3世。姉妹のクレオパトラ4世とクレオパトラ5世セレネを妻とし、ソラマメの意のあだ名で呼ばれた。

生涯
紀元前81年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

プトレマイオス9世ソテル2世は、古代エジプトのプトレマイオス朝のファラオである。ラテュロスのあだ名で知られ、これはソラマメ(ヒヨコマメとも訳される)を意味する。父はプトレマイオス8世フュスコン、母はクレオパトラ3世で、弟にプトレマイオス10世アレクサンドロスがいる。在位は紀元前116年から前107年、そして前88年から前81年の二度にわたり、その間に弟と王位を争った。

生年ははっきりしない。ファラオとしてのホルス名が、ある聖牛アピスと同じ年の生まれを示すように読めることから紀元前143年か前142年とする見方があるが、それでは両親の結婚(前141年)より前になってしまうため、前140年か前139年に置く歴史家もいる。当初の王位継承者は、プトレマイオス6世とクレオパトラ2世の子でほぼ同年代のプトレマイオス・メンフィテスであった。紀元前134年から前133年にかけて、彼はアレクサンドロス大王の年次神官を務め、その前年にはメンフィテスが同じ役を務めていた。ところが紀元前130年、内戦のさなかにクレオパトラ2世がメンフィテスを共同統治者として戴冠させようとしたため、プトレマイオス8世が彼を殺害させ、9世が後継者となった。

紀元前117年ごろ、母の求めによるともいわれて、彼はキプロスに送られ、島の総督として軍事と宗教の要職を兼ねた。直前に姉妹のクレオパトラ4世と結婚しており、キプロス滞在中に二人の息子が生まれたと考えられている。一人は後のプトレマイオス12世で、もう一人は後にキプロス王となるプトレマイオスである。なお、この派遣は9世を遠ざけて弟の10世を即位させるための措置だったとする記述もある。

紀元前116年6月28日にプトレマイオス8世が没した。ローマの歴史家ユスティヌスは、遺言でクレオパトラ3世が国を預かり、9世か10世のどちらかを共同統治者に選ぶ権利を与えられたと伝える。母は10世を望んだが、アレクサンドリアの民衆が暴動を起こして9世を選ばせたという。しかし、この話は後にクレオパトラ3世が作り上げた偽りだとする研究者もいる。当時クレオパトラ2世もまだ存命であり、母が単独で決める立場にあったとは考えにくいからである。いずれにせよ、同年10月のパピルス文書には、クレオパトラ2世、クレオパトラ3世、プトレマイオス9世の順で共同統治者として名が挙がっている。彼は「母を愛する救済者」を意味するフィロメトル・ソテルの称号を受けたが、これはクレオパトラ2世が内戦中に用いた称号と同じで、彼女が新体制で主導的な役割を担っていたことを示唆するとされる。

やがて彼は母と対立し、紀元前107年に母の手で退位させられ、弟の10世が代わって王位に就いた。しかし9世はキプロスの支配権を握ることに成功し、そこからユダヤへ侵攻した。だがエジプトへの侵攻は、紀元前103年から前102年にかけて10世に阻まれた。なお、最初の治世は紀元前116年から前110年と前109年から前107年の二つに区切って数えられる。紀元前88年、アレクサンドリアの市民が10世を追放し、9世を王位に復帰させた。以後は単独で統治し、紀元前81年に没する直前、娘のベレニケ3世を共同統治者に任じた。ベレニケ3世がその後を継いで君主となった。彼は姉妹のクレオパトラ4世とクレオパトラ・セレネ(クレオパトラ5世セレネ)の二人と結婚している。

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