伝記
レフ・セミョーノヴィチ・ヴィゴツキーは、1896年11月17日(ユリウス暦11月5日)、ベラルーシのヴォルシャの裕福なユダヤ人家庭に生まれ、南部のホメリで育ったソビエト連邦の心理学者である。八人きょうだいの二番目で、一時期は家庭教師から教育を受けた。1913年にはラトネル中学を金メダルの成績で卒業した。
モスクワ大学で法学を専攻したが、哲学に関心が強く、並行してシャニャフスキー人民大学で歴史と哲学を学んだ。さらに社会科学、心理学、言語学、文学、美術と、百科全書的な知識を身につけ、これがのちの心理学研究の基礎となった。在学中にロシア革命を経験し、1917年に二つの学校を同時に卒業している。1918年にホメリへ戻って文学と心理学の教師となり、演劇学校でも美学と美術史を講じて、学生たちの人気を集めた。演劇課の主任を務め、師範学校に心理学実験室も設けた。1918年から1920年には「世紀と日々」と名づけた出版事業を始めたが、紙不足で2冊を出したところで中止となる。この頃、結核を発病した。
転機は1924年1月に訪れた。レニングラードの学会で、反射学と心理学の研究方法について発表した直後、コンスタンチン・コルニーロフに招かれてモスクワに移り、心理学研究所で本格的な研究を始めた。教育人民委員部の障害児教育課の主任も兼ね、この年にローザ・スメホワと結婚し、ルリヤ、レオンチェフらが同僚となって、心理学の三人組がそろった。1925年には、師範学校での講義などをまとめた『芸術心理学』で学位を得た。結核が重く、公開審査は免除されたという。大学で講義する資格を得ると、各地の大学や教育機関から講師に招かれ、研究所も提供された。1926年には唯物弁証法の立場から既存の心理学諸派の検討に取りかかり、『心理学の危機』の執筆にとりかかり、1927年にその歴史的意味を論じた原稿を完成させた。1928年には子どもの文化的発達の問題を発表し、通信教育用の教科書『学童期の児童学』を刊行した。この年にモスクワで行われた左團次の一週間の公演を毎日観たという逸話も残る。
1929年春には数か月間、タシケントの大学で教師や心理学者への講義と訓練を行い、モスクワでは障害児の研究機関を求める運動が、教育人民委員部の障害学研究所として実った。この年にはロシア精神分析学協会に入会し、失語症についても書いている。1930年にはルリヤと『行動の歴史に関する試論』を著し、1931年には精神病理学の必要を感じて医学部生にもなった。1931年から1932年にかけて、ルリヤらとウズベキスタンで認識の過程を研究している。ウクライナの研究所の要請を受け、ハルキウに活動の拠点を移した。1932年にはピアジェの『児童の言語と思考』のロシア語訳を編集し、前書きを寄せた。
こうして10年ほどの短い研究活動の中で、発達心理学をはじめ幅広い分野の研究を行い、精神分析学、ゲシュタルト心理学、行動主義心理学といった既存の心理学を鋭く批判した。1934年6月11日、37歳の若さで世を去った。死後に名著『思考と言語』が刊行され、「心理学のモーツァルト」とも称される。20世紀のソビエト障害学の基礎もつくった。児童学はのち1936年に党中央委員会から禁止され、知能の発達研究は停滞したが、1956年のスターリン個人崇拝批判の後に討論が行われ、追究が再開された。
同じ年に亡くなった人物
- ネストル・マフノ (1934年没)
- チャールズ・フロイド (1934年没)
- ウォーリス・バッジ (1934年没)
- ジョン・コリア (画家) (1934年没)
- カール・ミヒャエル・ツー・メクレンブルク (1934年没)
同じ地域に関係する人物
- ボリス・リヴァノフ (1972年没)
- ヴァシーリー・トロピーニン (1857年没)
- 偽ドミトリー1世 (1606年没)
- フョードル・チェレンコフ (2014年没)
- オリガ・ロザノワ (1917年没)