伝記
マリ・キュリーは、1867年11月7日にワルシャワで生まれた物理学者・化学者である。生誕時の名はマリア・サロメア・スクウォドフスカといい、「キュリー夫人」として広く知られる。父は下級貴族階級の出で、ペテルブルク大学で数学と物理を教えた科学者だった。母ブロニスワヴァも下級貴族の出で、女学校の校長を務めた教育者である。マリアは五人兄弟の末っ子で、4歳のときには姉の本を朗読できるほど聡明で、記憶力も抜群だった。
当時のポーランドは帝政ロシアに事実上併合されており、知識層は監視されていた。マリアが6歳のとき、父が密かに講義を行っていたことが発覚して職と住居を失い、貧窮した一家は寄宿学校を開いた。1876年に生徒のチフスが一家にうつって姉ゾフィアが亡くなり、1878年5月9日には母が結核で他界する。10歳のマリアは深い鬱状態に陥り、母に倣ったカトリックの信仰を捨てたという。1883年にギムナジウムを優秀な成績で卒業したが、女性に進学の道は開かれていなかった。そこで非合法の「ワルシャワ移動大学」で学び、パリで薬学を学ぶために貯金していた姉ブロニスワヴァを助けようと、1885年から住み込みの家庭教師を始めた。親戚の農家で家庭教師をした際には、一家の長男カジミェシュと恋仲になったが、身分の違いを理由に両親に猛反対され、失意のうちに契約を終えた。
1891年9月、カジミェシュとの関係が行き詰まり、姉の誘いを受けてフランス行きを決意する。同年10月にパリへ移り、ソルボンヌ大学に登録した。登録用紙には名を「マリ」とフランス語風に書いた。やがて屋根裏部屋に移って、昼は学び、夕方は家庭教師をして暮らし、生活費に事欠いて食事もろくにとれず、暖房もないため寒い日には持っている服をすべて着て寝たという。倒れて義兄の医師の世話になったこともあったが、1893年7月に物理学の学士資格を得て、翌1894年7月には数学の学士資格も取った。
1894年春、研究の場所を探すなかで、物理学者ピエール・キュリーと出会った。ピエールは当時35歳で、パリ市立工業物理化学高等専門大学で教えていた。勲章を断り、薄給と粗末な設備にも甘んじて研究に打ち込む人物だった。二人は互いに尊敬と信頼を深めたが、マリはいつかポーランドに帰ると誓っていた。ピエールが何度も求婚の手紙を送り、ついに1895年7月に受諾して、7月26日に質素な結婚式を挙げた。1897年9月12日に長女イレーヌが生まれ、同年末には鉄鋼の磁化に関する論文を仕上げた。
博士号の研究テーマに、ベクレルが報告したウラン塩の透過力のある光線を選んだ。実験場は、暖房もない倉庫兼機械室だった。測定の結果、放射の強さはウランの含有量で決まり、外的要因に左右されないと分かった。これは放射が原子そのものに由来することを示している。さらに80以上の元素を調べてトリウムにも放射を見いだし、この現象を「放射能」と名づけた。研究内容は1898年5月12日に科学アカデミーへ提出された。のち放射線の研究で1903年にノーベル物理学賞、1911年にノーベル化学賞を受け、パリ大学初の女性教授となった。1934年7月4日に没した。
同じ年に亡くなった人物
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- エドガー・ユリウス・ユング (1934年没)
- グレゴール・シュトラッサー (1934年没)
- エンマ・フォン・ヴァルデック=ピルモント (1934年没)
- ジェームズ・ロルフ (1934年没)
同じ地域に関係する人物
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