伝記
マリー・ドレスラーは、1868年11月9日にカナダ・オンタリオ州コーバーグで生まれ、1934年7月28日に没した女優である。本名はレイラ・マリー・ケルバーといった。世界恐慌の時期に、60歳を過ぎてスターとなった遅咲きの女優で、1930年の『惨劇の波止場』で第4回アカデミー賞の主演女優賞を受賞した。人気絶頂の1934年に癌で亡くなり、65歳であった。死後四半世紀が過ぎた1960年には、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームに名前が刻まれた。
父は音楽教師で、地元の教会のオルガン奏者でもあり、母は音楽家であった。幼いころの彼女は教会でその手伝いをしながら歌ったという。一家は幼少期に各地を転々とし、のちにアメリカに移った。5歳のときには教会の催しで、キューピッド役を演じたのが、記録に残る最初の舞台とされる。アマチュアの舞台にたびたび出ては、両親を苛立たせたという。14歳で家を出て巡業劇団に入り、年を18歳と偽った。給料は週に6ドルか8ドルで、その半分を母に送った。芸名は叔母の名からとったとされるが、その叔母が誰かは確認されていない。コーラスガールとしてキャリアを始め、劇団での経験を、いつ演目が変わるかわからない中で誰もが台本を素早く覚えねばならない「素晴らしい学校」と語った。
1892年にブロードウェイにデビューした。第一次世界大戦中は、他の著名人とともに戦時公債の販売を助けた。その後はヴォードヴィルでも活動し、1900年代初頭にはヴォードヴィルのスターになった。1910年に主演した舞台『ティリーの悪夢』がヒットし、旧知の仲だった映画監督マック・セネットが、これを『醜女の深情け』(1914年)として映画化する際、彼女を主演に起用した。これが映画デビュー作で、ハリウッド初の長編コメディ映画であり、共演のチャールズ・チャップリンにとっては、自ら監督しない最後の作品となった。
続編的な作品にも出たが、キャリアは飛躍せず、1918年には仕事が来なくなった。ヴォードヴィルに戻ったものの、1919年にニューヨークで起きたコーラスガールらのストライキの代表に選ばれて積極的に活動したため、ブラックリストに載り、1920年代はニューヨークで仕事をするのが難しくなった。この窮状を知ったMGMの脚本家フランシス・マリオンは、自ら脚本を書いた『ザ・キャラハンズ・アンド・ザ・マーフィーズ』(1927年)の主演に、彼女を起用した。可能性に気づいた大プロデューサーのアーヴィング・タルバーグが、彼女をスターとして再生させることを決め、人気が出始めた。
復活のきっかけとなったのは、トーキーである。1930年、マリオン脚本によるグレタ・ガルボ初のトーキー作品『アンナ・クリスティ』での演技が高く評価され、同年の『惨劇の波止場』でアカデミー賞を受賞した。1932年の『愛に叛く者』では、第5回アカデミー賞の主演女優賞にノミネートされた。1930年から1933年にかけて様々な映画に出演し、1933年8月には「タイム」誌の表紙を飾り、同年にMGMが開いた大規模な誕生日パーティはラジオで生中継された。『晩餐八時』(1933年)にも出演し、ハリウッドを代表するスターとして人気を集めた。
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