伝記
クルト・フォン・シュライヒャーは、1882年4月4日、ブランデンブルク・アン・デア・ハーフェルに陸軍士官の息子として生まれたドイツの陸軍軍人、政治家である。生家のフォン・シュライヒャー家はブランデンブルクの旧家だった。1896年から1900年までベルリンのグロース・リヒターフェルデの士官学校に学び、1900年3月に少尉となって近衛第3歩兵連隊に配属された。同僚のオスカー・フォン・ヒンデンブルク(パウル・フォン・ヒンデンブルクの息子)と親しくなり、この部隊ではマンシュタインとも知り合った。1909年に中尉に昇進してプロイセン戦争大学校に入学し、ヴィルヘルム・グレーナーに師事した。ハンマーシュタイン=エクヴォルトと並んでグレーナーの最も優秀な教え子と言われ、以降グレーナーに引き立てられることになる。
1913年に戦争大学を卒業して参謀本部に配属され、グレーナーが運輸部長になると運輸部門に招かれた。そこでのちに因縁の関係となるフランツ・フォン・パーペンと知り合っている。第一次世界大戦が始まると大尉として兵站部に所属し、1916年に戦時局が創設されるとグレーナーを補佐した。1917年に短期間ガリツィア戦線に出て二級鉄十字章を得たが、大戦の大半は「書類机の将校」として過ごした。1918年10月にグレーナーが参謀次長となるとその補佐にあたり、ドイツ革命の流れの中で、エーベルトの率いる社民党政府との連携を進めた。社民党政府を認める代わりに兵士評議会を抑え、軍が新国家でも存続できるよう要求する協約で、軍部には「国家内国家」ともいえる独立性が与えられた。1918年12月には義勇軍の創設を提唱し、その装備と編成に大きな役割を果たした。
1919年に新設された国軍省に移り、ゼークトの側近となって、政府との交渉やソ連との接触など政治的任務を任された。1925年にヒンデンブルクが大統領に当選すると、その息子オスカーを通じて大統領に個人的に影響を及ぼすようになった。1926年に国軍省の政務課長となり、グレーナーが1928年に国防相になると権力はさらに増して、グレーナーから「我が養子」と呼ばれるほど信頼された。1929年に少将となり、「政治将軍」として本格的に暗躍を始めた。ブリューニングに目を付けて首相に押し上げ、1931年7月には従兄弟の未亡人エリザベートと結婚した。1932年にはナチ党の党首ヒトラーと密会し、グレーナーを国防相から辞職に追い込み、ブリューニング内閣も崩壊させた。後任の首相に推したのはほとんど無名のパーペンで、自身はその内閣の国防相として入閣した。
しかし後にパーペンを見限り、12月1日に彼が示した、国軍を出動させて議会を半年間停止し、改憲で大統領権限を強める計画に反対して、国軍の参加を拒んだ。翌日の閣議では閣僚の多くがシュライヒャーを支持し、ヒンデンブルクも「シュライヒャーに任せよう」と言ったという。こうして1932年12月に自ら首相に就任した。だがナチ党党首ヒトラーとパーペンの協力でシュライヒャー内閣は打倒され、1933年1月30日にはヒトラーを首相、パーペンを副首相とする内閣が誕生した。その後は引退生活を送ったが、1934年6月30日、「長いナイフの夜」事件で親衛隊により夫人とともに殺害された。
同じ年に亡くなった人物
- バンジャマン・バイヨー (1934年没)
- 金素月 (1934年没)
- エカテリーナ・ブレシコ=ブレシコフスカヤ (1934年没)
- カルステン・ボルクグレヴィンク (1934年没)
- カール・フォン・リンデ (1934年没)
同じ地域に関係する人物
- ユルゲン・エーラス (2008年没)
- リヒャルト・デーメル (1920年没)
- ヨハン (ゲルリッツ公) (1396年没)
- ハインリヒ・ゲオルゲ (1946年没)
- フリードリヒ・ヴィルヘルム2世 (プロイセン王) (1797年没)