伝記
レイモン・ポアンカレは、1860年8月20日にフランス東部ムーズ県のバル=ル=デュックで生まれた、第三共和政の政治家で弁護士である。父ニコラ・アントナン・エレーヌは優れた官僚で気象学者、母ナニーヌ・マリー・フィカティエは深く信仰に生きた人物であった。数学者のジュール=アンリ・ポアンカレは従兄にあたり、1862年生まれの弟リュシアンは物理学者として知られる。リセ・ルイ=ル=グランを経てパリ大学法学部で学び、20歳でフランス最年少の弁護士になったとされる。弁護士としては、化学者ウジェーヌ・チュルパンが、ジュール・ヴェルヌの小説に出る「狂った科学者」は自分がモデルだと訴えた名誉毀損の裁判で、ヴェルヌの弁護に成功した。
1887年、26歳でムーズ県選出の下院議員となり、議会で最年少だった。経済通として名を上げ、予算委員会に加わった。1893年のデュピュイ内閣で公教育・美術・宗教大臣、翌年の内閣では蔵相を務め、リボー内閣では公教育大臣となった。1895年秋には下院副議長となり、急進派の激しい敵意の中でも地位を保った。1902年にはガンベッタの後継者たちとともに、第三共和政の最も重要な中道右派政党となる民主同盟を創設した。1903年に上院議員となり、1906年には短命のサリアン内閣で再び蔵相を務めた。政治家の傍らでも弁護士の仕事を続け、文学や政治に関する随筆集を何冊か出版し、1909年にはアカデミー・フランセーズ会員に選ばれた。ジョルジュ・クレマンソーとは生涯にわたる不仲で知られ、互いを激しく嫌い合った。
1912年に初めて首相となった。財界からの要請と対独復讐を求める世論に押されたとされ、1912年と1914年にロシアを訪れている。ドイツの野心を阻む政策をとって、同盟国ロシアとの関係の修復に努めた。ボスニア危機や第二次モロッコ事件で、仏露同盟は傷んでいたのである。1913年に共和国大統領に就任し、形式的な地位から影響力を行使しようとした。1914年に第一次世界大戦が始まると「神聖連合」と呼ばれる挙国一致体制を成立させ、フランスは戦勝国となった。1917年にクレマンソーが首相になってからは影響力が小さくなったが、パリ講和会議ではラインラントの連合国による占領を主張した。「獅子」というあだ名でも呼ばれ、フランスでは戦時の勝利の指導者として称えられている。
大統領を退いたのち、1922年に再び首相となり、蔵相を兼ねて財政危機の収拾にあたり、フランの価格安定策として独立償却金庫を創設した。対独強硬派としてドイツ賠償委員会の委員長にも就き、1923年には賠償の支払いを強制するため、ルール占領を命じた。この厳罰主義のためとくに英語圏では攻撃的な人物と見られ、「戦争のポアンカレ」と呼ばれた。1924年のドーズ案の採択には最後まで反対したが、各国の圧力で方向を転換した。同年5月の選挙では、経済政策の失敗とルール占領が招いた国際的な孤立で支持を失い、所属する民主同盟は敗れた。これを機にフランスはドイツとの宥和政策へと転じ、ヤング案でドイツの戦後補償は実質的に完了したが、苛烈な処理に燻ったドイツ国民の感情は、のちのナチス台頭の遠因となったとされる。1926年から1929年にも首相を務めた。1929年に政界を引退して『回顧録』を執筆し、1934年10月15日にパリで死去した。
同じ年に亡くなった人物
- ウィレム・ケス (1934年没)
- アルフレッド・ブリュノー (1934年没)
- ウィレム・ド・ジッター (1934年没)
- アレクサンダル1世 (ユーゴスラビア王) (1934年没)
- キャス・ギルバート (1934年没)
同じ地域に関係する人物
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- Bernard Agre (2014年没)
- アンドレ・マッセナ (1817年没)
- レーモン・ベルナール (1977年没)
- ジャン=バプティスト・ルニョー (1829年没)