HISTORICAL PERSON · 1934年没

サンティアゴ・ラモン・イ・カハール

スペインの神経解剖学者。ニューロン説を提唱して激しい論争を招き、1906年にゴルジと共にノーベル生理学・医学賞を受賞した。

生涯
1934年没
死亡地
スペイン王国(マドリード州 / マドリード)
出生地
スペイン王国(ペティーリャ・デ・アラゴン)
出典
世界地図
スペイン王国(マドリード州)

伝記

サンティアゴ・ラモン・イ・カハールは、1852年5月1日にスペイン北部ナバーラ県の飛び地ペティリャ・デ・アラゴンで生まれた神経解剖学者である。父フスト・ラモン・カササスは田舎の外科医、母はアントニア・カハールで、二人はともにアラゴンのラレスの出身だった。「ラモン・イ・カハール」は父方の姓と母方の姓を「イ」(と)でつないだ呼び方で、一般には母方の姓の「カハール」だけで呼ばれることが多い。幼いころは父の仕事に従って、アラゴンの町や村を転々とした。2歳でペティリャを離れてラレスへ移り、その後ルナ、バルパルマス、アイエルベへと移り住んだ。教育は4歳のころにバルパルマスで始まり、初等教育はハカの修道会、中等教育はウエスカで受けた。

少年時代はいたずら好きの悪童で、絵を好み、この傾倒がのちに形態学者・解剖学者として役立ったようである。暗記を拒む性質もあって、教えていた修道士たちとは折り合いが悪かった。1866年、14歳のとき、悪童ぶりに困り果てた父から床屋と靴屋への徒弟奉公を命じられた。1868年にサラゴサ大学医学部に進み、1873年に卒業すると軍隊に招集された。軍医の採用試験では100人の志願者から32人の枠に入って6位となり、軍医となった。1874年に当時スペイン領だったキューバの内乱の前線に赴き、密林でマラリアに罹患した。カマグエイ州の診療所は多数の病兵を収容するには足りず、彼自身も病に倒れた。キューバで体験した軍の行政の混乱は、病気に劣らず苦いものだったという。

1875年に帰国し、サラゴサ大学医学部の解剖学臨時助手となり、1877年に医学博士の学位を取り、1880年に結婚した。1883年にバレンシア大学の解剖学教授となり、1887年、バルセロナ大学の正常・病理組織学教授に就いた年に、初めてゴルジ染色法の標本に触れて衝撃を受けた。1892年にはマドリード大学の教授となった。神経組織標本の観察にもとづき、ゲルラッハやゴルジらの網状説に反対してニューロン説を提唱し、激しい論争を引き起こした。網状説は、神経繊維は末端で途切れず連続して網を形成するとする説で、今日では完全に否定されている。ニューロン説は、神経系が非連続のニューロンから構成され、個々のニューロンが細胞体、樹状突起、軸索という極性のある構造を持ち、シナプスと呼ばれる接合部で互いに連絡すると考える。

1894年に王立協会からクルーニアン・メダルを受け、1904年にはヘルムホルツ・メダルを受賞した。1906年には神経系の構造の研究により、ゴルジとともにノーベル生理学・医学賞を受賞した。網状説のゴルジとニューロン説のカハールという正反対の立場の二人が受賞し、それぞれ正反対の立場で受賞記念講演を行った。のちの電子顕微鏡を用いた研究で、個々のニューロンの細胞膜が互いに独立していることが確かめられ、ニューロン説は神経科学の基本的な概念となった。1917年に自叙伝『我が生涯の思い出』を刊行し、1934年10月17日、82歳でマドリードで死去した。今日の神経科学・神経解剖学の基礎を築いた巨人とされ、しばしば神経科学の父と呼ばれる。

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