HISTORICAL PERSON · 紀元前76年没

アレクサンドロス・ヤンナイオス

ハスモン朝の王。プトレマイオス9世と戦い、ガザを破壊した。ファリサイ派との内戦に勝って800人を磔にしたとされ、領土を広げたが陣中で没し、遺言でファリサイ派に権力を与えるよう命じた。

生涯
紀元前76年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

アレクサンドロス・ヤンナイオスは、古代イスラエルを治めたハスモン朝の第2代の王で、在位は紀元前103年から前76年である。本名はヘブライ語でヨナタン、またはイェホナタンといい、即位に際して、ヘレニズムにかぶれていたためにギリシア語風の名を号したとされる。

ヨハネ・ヒルカノス1世の三男として、後妻の子に生まれた。父には疎んじられ、ガリラヤに送られて育てられたという。異母兄のアリストブロス1世が即位すると、身の安全のために異母弟を投獄した。アリストブロスは1年の治世で没し、その寡婦であるサロメ・アレクサンドラがアレクサンドロスと兄弟たちを解放した。兄弟の一人は王位を求めたが失敗したとされる。アレクサンドロスは彼女と結婚し、イスラエルを統治した。二人の間には二人の息子があり、長男ヒルカノス2世は紀元前62年に大祭司となった。

治世の初め、アレクサンドロスはプトレマイスの町を攻めた。プトレマイスは、母クレオパトラ3世に追放されてキプロスに王国を築いていたエジプトのプトレマイオス9世ラテュロスに助けを求めたが、住民はそれが女王クレオパトラへの宣戦にあたることに気づき、到着した彼を町に入れなかった。アレクサンドロスもこの争いに巻き込まれたくなく、包囲を解いてエルサレムに戻った。ドラのゾイロスの殺害と引き換えに400タラントンと和約をプトレマイオスに申し出ながら、裏ではクレオパトラとの同盟を交渉したという。その後はドラとストラトンの塔の沿岸都市を奪った。事態を知ったプトレマイオスは彼を殺そうと決意し、ガリラヤに大きな被害を与えて、安息日にアソコスを占領し、1万人を捕虜とした。続くアソフォンの戦いでは、プトレマイオス側の戦略家フィロステファノスがヨルダン川を敢えて渡って、ユダヤ軍を破った。プトレマイオスはユダヤを荒らしまわったが、クレオパトラ3世が彼を攻撃してシリアから追放した。ヤンナイオスとクレオパトラはスキュトポリスで同盟を結び、その後、ヤンナイオスは激しい抵抗の末にガザを占領して、徹底的に破壊した。

内政では、ヘレニズムに傾く王家に反発する人々がいた。サドカイ派はハスモン家を支持したが、厳格なファリサイ派はこれを非難した。大祭司を兼ねる点も、ファリサイ派の怒りを買った。母がモディインで捕らえられ辱められたことを理由に、大祭司の資格がないとも言われた。これに激怒した王はファリサイ派を迫害したとされる。仮庵の祭りの際に人々が王を侮辱すると、約6000人を処刑した。セレウコス朝のデメトリオス3世がファリサイ派を支援する形で、紀元前90年ごろに内戦が勃発した。サドカイ派と組んだヤンナイオスは、軍事指導者として各地で勝利し、反対派の要人を捕らえては残酷に処刑した。妾たちと祝宴を張りながら800人を磔にし、その眼前で妻子を殺害したという。エッセネ派とも接近したと伝えられ、死海文書の中には彼をたたえていると考えられる祈りがある。

内戦に勝つと、ヤンナイオスは領土拡張を進め、プトレマイオス朝と戦って南西に、ヨルダン川東部にも領土を広げた。その治世でハスモン王国は最大版図に達し、パレスチナの地中海沿岸の大半とヨルダン川周辺を含む、ソロモン王以来の広さとなった。彼はなお戦いを続け、ラガバ要塞の包囲中に陣没した。49歳だった。遺言では、ファリサイ派に権力を与え、自分の遺体を彼らの思うままに処分させるよう命じた。これでファリサイ派の敵意は収まり、後を継いだ妻サロメ・アレクサンドラは安定した統治ができたという。ファリサイ派はヤンナイオスを称賛し、盛大な葬式を行った。

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