伝記
モンケは、モンゴル帝国の第4代皇帝(カアン、在位1251年7月1日〜1259年8月11日)である。1209年1月10日に、チンギス・カンの四男トルイと、ケレイト族出身の正室ソルコクタニ・ベキの長男として生まれた。誕生時にコンゴタンの巫師が、必ず高貴な身になると告げたため、「長寿」を意味する名を付けられたという。伯父オゴデイの養子となり、その第二后アルクイに養育され教育を受けたが、実父のトルイが亡くなると、トルイ家へ戻った。元から贈られた廟号は憲宗、諡は桓粛皇帝である。
1235年のクリルタイで、ヴォルガ川西方の諸国を征服する遠征が決まると、トルイ家からは、モンケと弟のボチュクが指揮官に加わり、総司令官には最長老のバトゥが任じられた。遠征軍は1236年春にヴォルガ・ブルガールを降し、翌年にはキプチャク人を攻撃した。森に隠れて抵抗した首領バチュマンをモンケとボチュクが川中島で奇襲して粉砕し、モンケは、自決を望むバチュマンを弟に命じて切断させたという。続いて、ルーシに侵攻し、1237年12月から翌年にかけて、リャザン、コロムナ、モスクワ、ウラジーミル、スーズダリなどを陥落させ、大公ユーリー2世を戦死させた。しかし1239年秋、グユクとともにオゴデイ・カアンの帰還命令を受けて引き返し、1241年にモンゴル高原に着いたころにはオゴデイは崩御していた。
オゴデイの没後は皇后ドレゲネの監国を経て、1246年にグユクが第3代皇帝となったが、1248年に世を去った。バトゥはアラ・カマク山でクリルタイを招集し、グユクの后妃オグルガイミシュに摂政を委ねた。オゴデイ家の諸王侯は出席を拒み、会議はオゴデイ家派と、ジョチ家・トルイ家派に分かれた。バトゥはオゴデイ家を敵視して、トルイ家の未亡人ソルコクタニ・ベキと連携し、その長男モンケを推した。トルイが末子相続で軍の大部分を継承していたことや、ソルコクタニ妃の人望が優位に働いたとされる。バトゥは自らは辞退して、チンギス・カンのヤサに通じた者としてモンケを指名した。モンケも辞退して会議は数日間長引いたが、弟のモゲが、皆でバトゥの判断に従うと約束したのだと説くと、心を打たれて受諾した。翌1249年春にもクリルタイは開かれたが、オゴデイ家とチャガタイ家は出席せず、モンケの選挙は不当だと主張した。バトゥは弟ベルケに大軍を率いさせてモンケに随行させ、遅滞なく即位させるよう命じた。
1251年7月1日、クイトン・オラの地で即位式が行われ、モンケは43歳で第4代皇帝となった。諸王侯が帯を肩にかけて9回膝を曲げて敬礼し、続いて1万の将士も倣った。最初の命令として、この日は労働や喧嘩をやめ、馬に乗ること、動物を殺すこと、地面を掘ることなどを禁じ、翌日から1週間、盛大な宴が催された。この間、オゴデイ家のシレムンらが即位を妨害しようとしたが、モンケセルが20人以上を捕らえ、拘留した77人の将校が処刑された。即位後は、モンケセルを大ジャルグチ、ボルガイ・アカを大ビチクチに任命し、弟のクビライをゴビ砂漠南方の総督に置いた。ペルシア総督アルグン・アカが、皇族の約束手形の乱発で財政が窮乏し、耕作者が収穫を全部納めても足りないほどだと訴えると、モンケはペルシア各地の代官に報告を求めた。その結果、納税者の資力に応じた人頭税を年1回徴収して他の租税を免除する方式が採られ、家畜税は100頭につき1頭とされた。臣民を搾取することは厳禁された。
同じ年に亡くなった人物
- トンマーゾ2世・ディ・サヴォイア (1259年没)
- マティルド・ド・ダンマルタン (1259年没)
- クリストファ1世 (デンマーク王) (1259年没)
- エッチェリーノ3世・ダ・ロマーノ (1259年没)
- マシュー・パリス (1259年)